空也踊躍念仏が行われているので | がいちのぶろぐ

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年の暮も押し詰まってきた。今年は、とうとう年賀状を書くのを見送った。それというのも、一つにはプリンタの不調という極めて現実的な問題があった。

 

もう一つは、そろそろ〝終活〟の一環として、皆さまに〝欠礼〟することを選ぼうと思ったから。だから、届いた賀状にはお礼の気持ちを込めて、手書きで返事を出そうと思う。

 

いよいよ、〝そういう時期〟になったという自覚を持ち始めた。これからは、旧友もポツリポツリと櫛の歯が書けるように、幽明境を分けることになるだろう。

 

ところで〝幽明境を分ける〟と言えば、京都の場合には「鳥辺野」という葬送の地が、〝清水寺〟の南側周辺にあり、〝六道珍皇寺〟というお寺も清水寺に至る坂の途中にある。

 

 

(六道珍皇寺)

 

六道珍皇寺の周りは「六道の辻」として、死と生を分かつ分岐点だった。この辺りはさらに「六波羅」とも称されて、日本史の教科書にも必ず出てくる地名でもある。

 

 

 

この地には「六波羅蜜寺」というお寺もあり、そこには平清盛の像と伝えられる彫像もある。六波羅蜜寺は元をたどれば、「空也上人」が鴨川の東にお堂を建てたことに由来する。

 

 

 

空也上人は「念仏聖」として知られていて、6体の仏様が口から出ている彫刻が、美術の教科書などにも載っている。6体は「南・無・阿・弥・陀・仏」の6文字に対応している。

 

 

 

この彫刻も、やはり六波羅蜜寺が所蔵している。そして、12月の中旬から年末まで、六波羅蜜寺では〝疫病退散〟を祈って、「空也踊躍念仏」という〝念仏踊り〟が催されている。

 

 

 

ということで、今日は午後遅くに家を出て、六波羅蜜寺まで出掛けていた。午後4時からということだったが、始まる前にはさほど広くない本堂は人で埋め尽くされていた。

 

その後も続々と人が集まって来られて、本堂の外の縁側も立ち見でいっぱいという状態。ざっと見たところ、拝観客は200人以上おられただろう。

 

4人の僧侶が、鉦を叩きながら頭を前後に大きく揺すって、念仏を唱えながら内陣を回る。空也上人が10世紀にそうしたであろう、念仏踊りの様子を今日もそのまま伝えている。

 

 

 

およそ20分余りこうしたパフォーマンスが行われただろうか。最後は、拝観客も一緒に念仏を唱える。ただし「南無阿弥陀仏」とは唱えない。

 

よく聞いていると、「モーダ、ナンマイトー」というように聞こえて来る。平安時代には、空也上人が町中で鉦を叩き念仏を唱えて踊るのに合わせ、町衆が大勢参加していたらしい。

 

こうしたアナーキーな〝大衆運動〟は、常に権力が嫌うところとなる。だから当然ながら、この念仏踊りのパフォーマンスもたびたび弾圧の対象となった。

 

 

 

法然上人の〝説法〟ですら嫌われたくらいだから、都の町中で民衆が鉦に合わせて踊り狂うことなど、時の権力者にしてみれば許せることではなかっただろう。

 

だから鎌倉幕府は、この〝念仏踊り〟を厳しく禁止した。それ以来、「踊躍念仏」がようやく一般に公開されるようになったのは、実に昭和50年代になってからのことである。

 

「踊躍念仏」は、鎌倉時代以来800年間もの長きにわたって、『秘儀』として六波羅蜜寺の中でひっそりと行われてきたということだ。

 

 

〝秘儀〟としてこれほど長く伝えられてきたことの中に、宗教というものが持っている信仰心の凄さというか、信念が示す意思の強さというものを如実に示していると思う。

 

それにしても、「南無阿弥陀仏」と唱えることすら許さないという、幕府の姿勢の厳しさは、民衆が持つパワーへの恐怖心から来ているものかもしれない。

 

 

 

もっとも今日、〝踊躍念仏〟が終わった後は、拝観客がそれぞれ御朱印を受けたり、お守りを購入したりと、歳末とは思えないほど〝のんびり〟とした光景が繰り広げられていた。

 

 その一方で、香港では著名な歌手デニス・ホーさんが、今朝逮捕されたという。2014年に起った民主化要求の「雨傘運動」に参加していたということだ。

 

そのため、中国国内での演奏活動もできなくなり、レコード会社との契約も切られていたという。〝だから何?〟と言わないでほしい。これが「権力が嫌う」ということなのだから。