今日は冬至。ということとは関係なく、午前中は「蹴上」の辺りから南禅寺、岡崎周辺をブラブラと散歩に。そこで見つけた、ちょっと面白いものを紹介しておこうと。
琵琶湖の水を京都市内まで運んでいるのが「琵琶湖疎水」。それが京都の町に入る直前の、山科から九条山を越える場所「蹴上(けあげ)」にあるのが有名な「インクライン」。
滋賀県の方が京都の人間に対して言う〝決めゼリフ〟が、「琵琶湖の水を止めたろか」であり、その琵琶湖の水が京都に入るところが「蹴上の船溜まり」という場所。
(今日は工事で水が抜かれていた「蹴上の船溜まり」)
この「蹴上の船溜まり」と、その先の京都の町の側になる「南禅寺の船溜まり」の間を、ケーブルカーの要領で結んでいたのが「インクライン」というシステムだ。
(京都市動物園を背景に桜の時期の「南禅寺の船溜まり」)
なぜそんなものが必要になるかと言えば、山科側の標高とその先の京都側とは、800mほどの距離の間に40mほどの高低差があるから。勾配5%ほどのけっこうな急勾配。
逆に言うとこれだけの落差があったから、アメリカ視察で水力発電を見たことをきっかけに、若き田辺朔郎技師は落差を利用して水力発電を行うことを決心したのだろう。
(水力発電用の送水管)
発電にはその落差が有効だけど、琵琶湖と京都を結ぶ物資の水運は、こんな急勾配では船が通れない。だから、船だけを台車に乗せてケーブルカーとして上げ下ろしをする。
ということで、インクラインの〝てっぺん〟に当たる「蹴上の船溜まり」の近くの九条山公園には、かつて使われていた台車がモニュメントとして残されている。
その近くには田辺朔郎先生の銅像や、この〝琵琶湖疎水〟という日本人だけの手になった難工事で、犠牲となった方々の慰霊碑なども立てられている。
(桜を背景にした田辺朔郎の銅像)
さらに、今では使われなくなったこの「インクライン」の周辺は、多くの桜が植えられていて、春には花見客でにぎわう場所にもなっている。
(桜の時期には大勢の観光客でにぎわう「インクライン」の線路跡)
その田辺先生の銅像などとは少し離れた場所に、わりと大きな不思議な石仏が祀られている。横に立っている駒札には、「蹴上 義経地蔵」と書かれている。
「義経?」「ハイ、あの牛若丸です」ということだ。駒札を読むと、京を離れ奥州に向かう義経がこの峠に差し掛かった時、行き逢わせた平家の一団が蹴上げた泥が掛かったらしい。
そもそも〝都落ち〟する義経にすれば、腹の底に〝にっくき平家め〟という恨みがある。そこへ泥を掛けられたものだから、いきなりこの一団を斬り捨ててしまったという。
鞍馬山で大天狗に稽古をつけてもらっていたとはいえ、たかが小僧一人に9人もの騎馬の武士が斬り殺されることは、普通に考えれば有り得ないと思う。
もし本当に、義経が凄い剣の使い手だったとしても、平家の武士を9人も斬り殺せば、その後は追手が追っかけてきて、とてもではないが奥州までは逃げられないだろうと思う。
私はそう思うけれど、駒札にはそう書かれている。それでこの場所は、武士の乗った馬が義経に向かって泥を〝蹴上げた〟場所だから、「蹴上」と言われるようになったそうだ。
さらに少し山科側に行った場所には、ご丁寧に「血洗町」という地名が今も残っているという。その辺りで、義経が刀に着いた血を洗ったから。
という言い伝えで、かつては義経に切られた9人を弔う石仏が9体あって、町の名も九体町というのだそうだ。そして、祀られている石仏はその中の1体ということらしい。
何しろ石仏の前の花入れの石筒にも「義経 大日如来」と彫られているし、線香もあり緑のきれいな小枝まで活けられてある。今も、地域の方に守られている石仏なのだ。
伝承は伝承として、ここには地域に根付いた信仰心が生きている。そして横にある、疎水工事の殉難者慰霊碑文は、「工事主任 工学博士 田邊朔郎」名になっている。
600年の時空を隔ててこうして並んでいる両者は、京都という町を語るときに欠かせない名前だと思う。それが何だか、〝ふんわり〟とした感じでお隣さん同士になっている。
このインクラインの〝てっぺん〟にある九条山公園と名付けられた場所も、そう思って見回してみれば、歴史的には何か〝変革〟と関わった場所なのかもしれない。