今日は午前中に、ちょっと変わったお寺へ。実はそこだけではなく、もう一ヵ所「西院春日神社」という神社にもお参りに行ったのだが、それは置いておくとして。
京都市の西で、四条通と西大路通が交差するところに、京都と大阪を結ぶ阪急電車の「西院(さいいん)」駅がある。
さらに、四条通を西大路通からほんの少し東へ行ったところに、嵐電(京福電鉄)の「西院(さい)」駅がある。
最近は、この2つの駅が地下通路によってつながったので、雨の日でもそのままお互いに乗り換えが可能になった。それまでこの少しの距離を、傘をさして歩いていた。
ということだが、2つの駅名が『漢字で書けば同じ』だけど、『読み仮名』は異なっている。知っている人は知っている話だが、京都生まれでも知らない人がもう多くなってきた。
「西院」という名前は、京都の西の方だからということはわかる。「院」が付く場合、大体は天皇が上皇になった場合に「○○院」などと呼ばれたから、それに関わる話となる。
淳和(じゅんな)天皇が833(天長10)年に天皇を退位され、〝淳和院〟として移られたのが都の西の方に作った住居だったから、「西院」とも呼ばれるようになった。
平安京ではこの〝淳和院〟があった場所が、現在の四条通と西大路通の角から北東方向の一帯だったと考えられている。それなら「さいいん」で終われば済んでしまう話になる。
その西大路通は、平安京のころは「道祖(さい)大路」または「佐井大路」と呼ばれていた。現在も、西大路通の一筋西側の通りは「佐井通り」として、当時の名称が残っている。
ところでこの〝淳和院〟の一角だった場所に、今日私が訪ねたお寺「高山寺」がある。お寺の門前の石碑には、「西院(さい)の河原 旧跡 高山寺」と彫られている。
もともとこの〝淳和院〟は上皇が住まわれる〝院の御所〟だから、200m四方程度の広いスペースだった。それにこの一帯は、けっこう湿地帯というか小さな川も流れていた。
だから、きっとそんな川の水なども引き込んで、この〝淳和院〟には庭園なども作られていただろう。
それでも時が経てば、こうした建物や邸宅も持ち主が不在になったり、火災や戦乱にあったりして、ひどく荒れ果ててしまうことが多い。
この〝淳和院〟も、そうした憂き目を見たらしい。ところで、現在の「高山寺」というお寺から少し南東に離れた辺りに、室町時代から「高西寺」というお寺があったらしい。
それが豊臣秀吉による〝京都大改造計画〟で、京都を囲む「御土居」の建設予定に引っ掛かり、秀吉の命令によって引越しすることになったというのだ。
それで、〝淳和院〟として栄えていたころからすれば、750年近く経ってから、その跡地ともいえる場所に移ってきて、名前も「高山寺」と変わることになった。
それが今日、私が訪ねた「高山寺」ということになる。750年も経てば、大きく変わっても仕方がないだろう。だって、秀吉の時代から現在までは400年しか経っていないから。
それで移ってくることになった「高西寺」には、ご本尊として「子安地蔵」が祀られていた。これは足利8代将軍・義政の夫人・日野富子も参った、というくらいのお地蔵さんだった。
だから「高西寺」を移転する際には、御土居のために掘り返されたところから、多くの石仏が出てきたという。
つまり、その時点でどうも「高西寺」には「賽の河原」信仰的なものがあったようだ。亡くなった子どもが、三途の川のそばで延々と石を積み続けるが、鬼がそれを潰すという話だ。
もうお分かりだと思う。道祖(さい)大路にあったという〝淳和院〟の御所だった場所へ、賽の河原の〝いわれ〟を抱えたお寺がやってきた。
これでは、「賽の河原」と「道祖(さい)大路」とが、どう考えたって一瞬でつながってしまう。人々の頭の中では、子どもたちの供養をしていたお寺だと浮かんでいる。
そのお寺が、道祖(さい)大路だった場所に来れば、もう一瞬で理解が進んでしまって、「ハイ、このお寺は賽の河原のお寺ですから」ということになる。
結果的に、「高山寺」の門前にあった石碑のように、「西院(さい)の河原 旧跡」というフレーズがくっ付いてくることになった。
だから、阪急電車の駅は「西院(さいいん)」で、嵐電は「西院(さい)」である。どちらも正しい。でも古くからの呼び習わしは、「さい」の方がぴったりくるだろう。
ところで高山寺の山門をくぐると、かなり大きなお地蔵様の石仏が目に入る。これは集まった多くの石仏を供養するため、明治時代になって黒谷・金戒光明寺から移されたらしい。
ということで、今日はちょっとばかり変わった経緯のあるお寺へお参りに行ってきた。