今年の〝失言〟をまとめた記事を読んだ | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

今日配信されていたダイヤモンド・オンライン誌に、今年の政治家の失言集が取り上げられていた。例年のようにということだから、〝毎度お馴染み〟ということなのだろう。

 

例によって、森・元総理のオリンピック組織委員会での発言に始まり、こちらも失言王の麻生・自民党副総裁が、北海道で選挙の応援演説の際にやらかした発言。

 

河村・名古屋市長が〝金メダルを嚙んだ〟時に、併せて発言した内容などなど。例によって例のごとく、今では高齢になった政治家が、何にも考えずに思ったことを言い放つ。

 

いや、高齢になったから言うのではなく、そういうことを言う人が、現在高齢になってきているだけかもしれない。

 

財務省での公文書の書き換えを巡る件では、まじめな公務員の方が自ら命を絶たれたが、それに対しては、奥様が提起された賠償請求訴訟で国はとうとう責任を認めた。

 

その認め方も、『あんたの言うことはわかったから、言う通りの金は払ってやるよ。その代わりもうこれ以上、お上には口出しするんじゃない』と言わんばかりのやり口だった。

 

森氏にしても麻生氏にしても、公文書改ざん問題での安倍・元総理にしても、みんな発想は同じだと思う。下々の人間のことなど、これっぽっちも考えてなんかいない、という点で。

 

大多数の〝下々の人間〟は、こうした政治家たちが言うことを〝ペコペコ〟しながら、〝拝聴〟する人間だと思われているのだろう。

 

いずれにしても江戸時代のお殿様は、こんなレベルであれば〝暗愚な殿〟として、重臣や親戚などによる〝押し込め〟などで、〝殿の座〟から引きずり降ろされた。

 

そうしないと、藩が〝取り潰し〟の憂き目に会いかねなかったから。そこへ行くと、国民主権になり選挙で選ばれる時代になったら、〝こんなレベル〟は当選しないはずだった。

 

だけど、こういう人たちが、選挙で何度も堂々と当選してくる。その程度の国民と、その程度の政治家が生み出す〝馴れ合い〟の結果なのだろう。

 

恐るべきことに、こうした人たちが自民党の大派閥を率いて、いつまでも政権の中で力を誇示していることだ。

 

これまで日本には、〝恥ずかしい〟とか、〝世間に顔向けできない〟という言葉があった。つまり「恥の文化」というものが規範として存在した。

 

それがまったく無くなってしまったのだろうか。「国家の品格」以前に、「政治家の品格」や「政治家の風格」といったことが、どこかに吹っ飛んでしまったということなのだろう。

 

失言や放言、まさに「わきまえない言葉の放列」が、結果的にこの国を3流国にして行くのだと思う。それにしても、今日の記事に上がっていた失言の数々のレベルの低さ。

 

いやホントにもう、聞くこちらが恥ずかしくなるような言葉を、平気で吐き出し続けられる神経の図太さに、〝すごいなあ〟と感心するばかりだ。