「The W」の審査は難しかったと思う | がいちのぶろぐ

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「京都・観光文化検定(京都検定)」の試験日から2日が経った。昨夜は、知人に誘われて若い人たちの小さな集まりに出掛けていた。

 

 

 

それ自体は他愛もない集まりだったけれど、参加していた若い人たちが独立心旺盛というか、現在独立して一人で仕事をしていたり、過去にそうした経歴を持っていたりした。

 

私も身に覚えがあることなので、ある意味で微笑ましくもあり、別の意味では心配になる気持ちもあった。独立して何かをするというのは、口で言うほど簡単なことではない。

 

 

 

それでも、現在はいわゆる「勤め人=サラリーマン・OL」という範疇からはみ出して、自分が考える〝社会との関わり方〟を模索する人が少なくないようだ。

 

それはそれで良いことだし、大いにチャレンジしてほしいと思う。失敗しても、命まで差し出せとは、滅多なことがなければ言われないだろう。

 

だからこそ、チャレンジしてダメだったとしてもやり直せる年代であれば、挑戦もまた良いことだと思う。もちろん、自分の思い通り成功すれば、それに越したことはない。

 

 

 

そんなことで、私自身は「京都検定」の試験で感じた屈辱感というか、なんとも言えない挫折感を、こうした元気印の若い方との会話で癒すことができたと思う。

 

そして帰宅してからは、録画をしておいた女性芸人のNo.1決定戦「The W」を見た。このイベントも、もう5回目になるという。ここから世の中に出てきた女性芸人もいる。

 

だからこそ、決勝に進んだ芸人さんたちも、明日の自分たちの〝希望〟に向かって、精一杯自分らしさを見せようとしていた。

 

芸人の世界も、M-1やキング・オブ・コント、ピン芸人のR-1など、賞レースも増えたし、それぞれが求める芸のジャンルも徐々に確立されてきた。

 

ところがこの「The W」は、女性芸人の闘いではあっても、漫才・コント・ピン芸人などといったジャンルの枠を問わない。

 

ある意味では、優劣をつけるための判断基準に〝ぶれ〟が生じやすい、という性格がある。だから、審査員として出てくる先輩芸人の皆さんも、きっと大変だろうと思う。

 

その証拠に、今日のインターネットニュースでは、様々な論評が見られることになっている。中でも1対1での評価を行ったという、審査方法に疑問を呈する意見が目立っていた。

 

何が公平なのかなど、審査員による〝採点競技〟だから、そこには常に他者が口を挟む余地が残されてしまう。陸上競技のゴールのように、早い者勝ちではないのだから。

 

1対1の相対評価で勝ち残りする方式が良いのか、ある組数の表演を見た上で、その全体の中で序列をつける方が良いのかは、誰にも正解はわからない。

 

これは、相対評価と絶対評価の違いというわけではない。1対1の相対評価か、複数の中での序列評価か、という違いであって、相対評価であることには変わりはない。

 

だから、自分が面白いと思った演者を評価する、という点では、審査員の先輩芸人の方も大変だろうと思う。お茶の間の観客席にも、それぞれなりの評価軸はあるだろうから。

 

ということでお茶の間審査員の私は、決勝戦の優勝者は「Aロッソ」というコンビだろうと評価した。他の決勝進出2組と比較して、アイデアに斬新さを感じたから。

 

だけど、審査員7人の評価は3対2対2という票数になった。誰かに票が集中することはなかった。審査員の評価もまったく割れてしまった、ということだ。

 

もちろんルールだから、それこそ3票を獲得したコンビ「オダウエダ」が優勝した。これはこれで、「おめでとう、良かったね」ということになる。

 

それにしても、このところお笑い芸の根底が変わりつつある。「アホ」や「ブサイク」といった、その人間のネガティブな側面を物笑いの種にする手法は否定されるようになった。

 

〝笑い〟という、人間だけが持っている高度な知能活動は、〝そもそも笑いとは何か〟という新時代の課題を抱えながら、しばらくは模索が続いていくのだろう。