京都検定は惨敗だったけれど | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

昨日は、やはりというか精も根も尽き果てていて、とてもブログなど書く気にもなれなかった。受験結果は、「ハイ、惨敗でした」というほかはないだろう。

 

 

 

昨日の「京都・観光文化検定(京都検定)」の1級の試験は、いったいどれほど難しいものなのかということを、痛感どころではない、大打撃とともに実感させられた。

 

自己採点では、150点満点(通常設問60問120点、論述式3問30点)で、55%に届くかどうかといったところだった。

 

 

 

1級合格は80%(120点)が必要で、準1級認定でも70%(105点)となっている。それに対して、自分の点数がせいぜい80点前後ではどうすることもできない。

 

もう完敗というほかなかった。受験時間は1時間30分だが、問題用紙を開けてから、通常問題の60問中で、知っているものを書き込んで行くだけでも3、40分かかった。

 

それから、論述式に取り掛かる。5つのキーワード(それ自体が質問になっている)の解答にたどり着いてから、それらのすべてを使って150字以上200字以内の文章を作る。

 

まず質問からキーワードの解答を考えて、すぐに下書き用紙にグチャグチャの字であらすじをザッと書いてから清書する。これを3問繰り返す。もはや時間も足りなかった。

 

しかも、5つ全部のキーワードがわかっているわけではない。それでも、わからないキーワードを外したままで、何とかそれらしい意味の通った文章に仕上げる。

 

この段階で、1時間20分は経過していた。残された時間は10分あるかどうか。それで通常設問の60問の中で、とりあえず思いつかなくて空欄になっていたところを埋める。

 

「埋める」と言っても、最初に問題を読んだときに、パッと解答が思い浮かんでこなかったものを、必死に思い出そうとしても、そんなに浮かんで来るものではない。

 

ヒーコラ言いながら、1つ2つ埋められれば〝良し〟としたものだ。もう残りは〝当てずっぽう〟で、万が一にでも当たれば儲けものということに。それでも空白が残る。

 

 

(試験会場は、日本電産の永守氏が作っている大学だった)

 

終わった時には、なんとも言えない空虚さだけが残っていた。この3か月間ほどの受験勉強は、決して間違ってはいなかったと思う。それ自体は、よくやったと思う。

 

しかし、実際に受験をしてみて分かったことが2つあった。一つ目は、普通に市販されている書籍に載っている内容などは、1級受験では単なる前提のレベルだということ。

 

そんな内容などは、すべてクリアしていることが前提だった。その上で二つ目は、通常設問などはほとんどの解答がパッと浮かんで、すらすら書けないと時間が足りないことだった。

 

そうしないと、論述問題に取り掛かった時点で、キーワードがすべてわかっても、話のストーリーが通る文章を書いている時間がなくなってしまう。

 

 

(試験会場近くの街路樹は珍しく楓で、きれいな紅葉が残っていた)

 

論述式の3問×5個=15個のキーワードを含めて、合計75個の解答が存在するけれど、これらのザッと85%以上、できれば90%は瞬時にわからないといけない。

 

そうでなければ、1級合格など〝夢のまた夢〟ということだ。昨年2級に初挑戦し、偶然とはいえ90%ほどの得点を獲れたので、思わず調子に乗った自分がいた。

 

しかし1級は、2級までとはまったくの別世界、異次元だった。これまでもこのブログで、1級は「京都ヲタク」のレベルなどと書いてきた。

 

でも実際は、「ヲタク」などという生半可なものではなかった。何から何まで知っていて、それらが頭の中に〝整理収納〟できており、瞬時に引き出せる状態でなければならない。

 

これはいよいよ、〝挑戦〟という言葉に値する超難関だということが、身に染みて分かった。そう思えば、もう来年に向けては、何をすれば良いかはっきりしてくる。

 

これからの1年は、京都検定1級合格にすべての照準を合わせて行こうと思う。それが、散歩と称して出歩くことにもつながってくる。

 

抗がん剤でガックリと落ちてしまった体力の回復にも、これはちょうど良い機会だと思う。昨日の惨敗という結果を、むしろ前向きに受け止めることができた気がする。