散歩の続編、西本願寺まで足を伸ばした | がいちのぶろぐ

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昨日、「300系新幹線」とつい書いてしまったが、300系の前方の形状は明石家さんまさん風の出歯形(失礼)だった。実際は「0系」という最初の新幹線だった。訂正しておきます。

 

 

 

昨日は、西大路八条にある「若一神社」が、平清盛の「西八条第」跡と主張しているけれど、1kmほど離れた「梅小路公園」にも、やはり「西八条第」跡という表示がある、という話を書いた。

 

 

 

 

どちらが本当なのかは学者にすれば大切なことだし、そのため発掘調査もされるわけだ。一方、神社であれば〝言い伝え〟として、こういうことがあるという話だから、それもまた良いだろう。

 

ただし、若一神社の〝平清盛お手植えの楠〟の話がもし本当であれば、この木は樹齢850年ほどになる。それなら〝なかなか〟の樹齢だし、真実であれば相当貴重な樹木になるだろう。

 

 

 

なので、こちらはちょっと眉に唾を塗っておいた方が良いかもしれない。ということはさて置き、昨日の散歩は、梅小路公園の中の「西八条第」の説明の看板を見たあと、西本願寺へ向かった。

 

西本願寺へ行くのが、昨日の散歩の本命だった。梅小路公園にある「京都水族館」は、平日の午前中とあって、お客さんが入口に入る様子もなくガランとした雰囲気だった。

 

 

 

梅小路公園の東側にある大宮通を渡って「三哲通(塩小路通)」へ入り、この細い道をさらに東へと向かう。ほんの少し行くと「龍岸寺」というお寺がある。

 

 

 

「三哲通」の名前は、このお寺「龍岸寺」に〝渋川三哲〟がいたから付いたらしい。だからこの道をさらに東へ行った、JR京都駅の辺りではもう「塩小路通」と呼ばれている。

 

渋川三哲(春海)は江戸時代前半の天文学者で、17世紀の末から使われた「貞享暦(じょうきょうれき)」を作った人。それまでは、平安時代に中国から伝わった暦をズーッと使っていたそうだ。

 

だから暦と現実にいろいろと〝ズレ〟が生じていたが、渋川三哲(春海)がそれを修正して、初めて「和暦」という国産の暦を編纂した。そういう偉い人がここにいた。

 

でも、よほどオタクっぽい人でなければ、この人のことなど普通は知らない。私も先月放送されたテレビ番組で、偶然にそのことを知ったばかり。だから、行ってみようという気になった。

 

 

 

でも小さなお寺だし、門には柵がしてあった。不審者ではないけれど、門の中に首を突っ込んで覗いていると、本堂を掃除されていた方が招き入れてくれて、本堂へも上げてくださった。

 

それでご本尊に手を合わせ「南無阿弥陀仏」と唱えて、殊勝に拝んでおいた。聞けば渋川三哲(春海)に関しては、特に〝見せるネタ〟も無くて、「せいぜい位牌くらいです」という話だった。

 

 

 

とまあそんなことで龍岸寺を後にして、そこから北東にある西本願寺に向かった。ものの10分足らずも歩くと、龍谷大学大宮キャンパスの美しい建物の前に出る。

 

 

 

明治時代の洋風建築というわけで、このキャンパスの〝本館〟や〝門衛詰所〟などは重要文化財に指定されている。そのすぐ北側に、「西本願寺」の「唐門」がある。

 

 

 

昨日の散歩のお目当ては、この国宝の「唐門」。以前に来た時には、まだ修復工事中だったが、9月に完成したところだ。写真でおわかりの通り、とてもきらびやかな装飾が施されている。

 

 

 

桃山時代の様式の建築で、秀吉の〝伏見城の遺構〟という伝承を持っている。何よりもこれだけの装飾だから、一日中飽きることなく眺めていられる。なので「日暮門」という異名を持っている。

 

 

 

昨日も、私のほかに数名の方が写真を撮りに来られていた。わかるなあ、これはやっぱり写しておきたいと思う気持ちにさせる。黒漆の地に極彩色で仕上げられ彫刻も楽しい。

 

 

 

菊の御紋の下には麒麟に一角獣。よくわからない雷獣のような動物。鳳凰ももちろん舞っている。側面には鶴に虎、反対側の側面には豹までいる。

 

 

 

 

娯楽も少なく、もちろん動物園も無かった時代の人にすれば、この門の装飾は〝見もの〟だっただろうと思われる。見飽きることが無い「日暮門」と言われるのも納得できる。

 

 

 

 

 

ということで、昨日はこの「唐門」の修復が終わった姿を見られて、これで散歩の目的を達したので、西本願寺の前からバスに乗って帰路に着いた。

 

けっこう長い散歩になった。家に帰り着いて、まずは汗を吸ったシャツを取り替える必要があった。