平清盛の「西八条第」はどこにあった | がいちのぶろぐ

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この間、散歩に出掛ける先が山裾にある寺社が多かったので、どうしても最後は急坂や石段の上に寺社があって、高齢者の私は行くだけで息切れしてしまうと弱音を吐いてきた。

 

だから今朝は、平坦な町中にある寺社などを巡って、坂や石段は遠慮することにした。ということで、京都市の地図で言えば、我が家と対角線に位置する場所へと向かった。

 

我が家は京都市の町中の北東寄り、賀茂川と高野川が合流している通称「鴨川デルタ」の東側になる。下鴨神社の〝糺の森〟や京都御所とも、それほど遠く離れていない場所だ。

 

 

(賀茂川と高野川の合流点にある飛び石)

 

そこから市バスを乗り継いで、京都市の町中の南西部にあたる〝西大路八条〟まで出掛けた。ここまで来るには、乗り継ぎが上手くいったけれど、それでも50分あまり掛かった。

 

到着した西大路八条の交差点には、「若一(にゃくいち)神社」がある。この神社の創建は、あの平清盛公だという。社伝では、清盛がこの地に「西八条第」という別邸を築いていたそうだ。

 

 

 

 

 

ある時、清盛がこの地の土の中から「熊野古道」にある「若一王子」のご神体を見つけ出して、お祀りしたのが神社の始まりだという。そうしたら、清盛はすぐに太政大臣に出世したのだそうだ。

 

その御礼にと、清盛は神社の前に楠を〝手植え〟にしたそうだ。それが今も、神社の鳥居の前でご神木となっている。というくらいに、この若一神社は古くからあったらしい。

 

 

 

 

 

だが昭和の初めに、京都の大通りである「西大路通」を拡張整備する時、この神社の前の楠を切ろうとしたところ、工事関係者に何かと不幸が続いたというのだ。

 

だから、道路を真っ直ぐに通すことをあきらめて、この楠を避けるように道路を少し迂回させた。さらに、このご神木の楠には『座敷童子』が住んでいる、という言い伝えまであるそうだ。

 

 

 

そんな〝言われ〟なのだが、平清盛の「西八条第」は、この場所から1km余り東の、京都水族館や鉄道博物館などがある「梅小路公園」の南西部分で、発掘調査の結果から位置が確定された。

 

平家が源氏に追われて都落ちをする際に、「西八条第」も火を放って焼き尽くしたという、平家物語の記述と発掘の結果が一致していたと、こちらは梅小路公園の看板に書かれていた。

 

〝だから何だ〟と言われても困るが、若一神社の社伝と考古学的な調査結果が異なっていたということだ。ご神木がたとえ〝清盛手植えの楠〟であろうとなかろうと、立派な木には違いない。

 

 

 

それ以上に笑ってしまったのは、若一神社のご神木に「座敷童子」が住みついているという伝承を受けて、商売熱心にもお守り類の中に、「座敷わらし守」がしっかりと並んでいた。

 

 

 

 

ということで若一神社を後にして、もう一つの「西八条第」のあった場所という「梅小路公園に向かった。いずれにしても散歩だから、結論はどちらでも良いということで。

 

15分あまり歩いて鉄道博物館の裏手に着き、「300系新幹線」の展示を見掛け、JR貨物・京都駅と山陰線の「梅小路京都西」駅の分岐を見ながら、梅小路公園の中に入った。

 

 

 

 

鉄道博物館には、山陰線・二条駅の旧駅舎もそのまま移設されている。博物館は今日、定休日だったけれど、この二条駅の旧駅舎はしっかり外からも見ることができた。

 

 

 

 

梅小路公園は新たに「梅小路京都西」駅ができたお蔭で、公園の敷地と接する場所にホテルが2カ所もできていた。そう言えばこれに気付くほど、しばらくこの公園にも来ていなかった。

 

 

 

公園の広場では、近所の幼稚園や保育園の子どもたちが、歓声を上げて遊んでいた。そんな中、公園の片隅には「西八条第」に関する説明看板と、その周りにはそれらしき庭も作られていた。

 

 

 

 

 

 

 

というような散歩だった。この後、梅小路公園から西本願寺方面まで散歩して、西本願寺の前のバス停から帰宅した。なぜ西本願寺に行ったのかは、続編として明日にも書こうと思う。