岩倉・木野から深泥池までのゆるーい散歩 | がいちのぶろぐ

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昨日は、月に2回の京大病院への通院日だった。採血などの検査もあるけれど、とりあえず待ち時間がたっぷりとあることと、やはり点滴には2時間近く時間がかかってしまう。

 

 

というようなことで、帰宅をしたもののかなり疲労を感じていたために、昨日はブログを書こうという意欲が起きなかった。まずはこんな言い訳から。

 

今日は、心機一転で散歩に行くと心に決めたので、朝から叡山電鉄鞍馬線に乗って岩倉方面に出掛けてきた。まずは木野駅まで電車で。

 

 

 

電車には、京都精華大学へ行く学生さんが大勢乗車していた。学生さんたちが目指す精華大前駅の、一つ手前が私の目指す木野駅。かつては、ここから精華大学まで歩いていたのだが。

 

それはともかく、京都精華大学にはマンガ学部があるし、現在の学長はアフリカからやって来たウスビ・サコさん。とにかく異色の大学なのだ。

 

ということとは関係なく、木野駅で下車して南西に500mほどのところに、顕本法華宗総本山というお寺「妙満寺」がある。半世紀前までは、京都市役所の北側といういわば都心部にあった。

 

 

 

元々は、1389年に現在の烏丸五条の辺りに日什上人が建立したお寺らしい。それから兵乱などで京都市内を転々とし、1583年に豊臣秀吉によって寺町二条に移された。

 

 

 

以来400年近くその地にあったけれど、何しろ都心のド真ん中ということで、50年余り前に、静寂を求めてこの岩倉・木野の地へ移ったと、いただいたリーフレットに書かれていた。

 

 

 

 

 

現在は、本堂の真正面に比叡山を望み、境内にはきわめてアジアン・テイストな仏舎利塔まである。お釈迦様が悟りを開いた聖地にある、「ブッダガヤ大塔」をイメージしたらしい。知らんけど。

 

 

 

 

 

この地へ移転するまでは塔頭の「成就院」にあった、俳人・松永貞徳の作と伝えられる「雪の庭」と称する名庭が、移転を機に現在は方丈の庭として移っている。

 

 

 

 

ちなみに、「雪・月・花」の「月の庭」は清水寺の塔頭の「成就院」に現在もある。また、「花の庭」はリーフレットによれば、北野天満宮の一隅にあった「成就院」にかつてあったのだという。

 

 

 

「雪・月・花」はすべてが「成就院」の庭だったというのも、何かしら意図して作られているような気がするけれど、この「妙満寺」の「雪の庭」は実に繊細なつくりの庭になっていた。

 

 

 

今日も、造園業の方が測量器材を持って、庭で作業をされていた。こうした名庭は維持管理をするだけでも大変な費用を要するだろう。

 

 

 

このお寺には、トヨタ自動車の生みの親と言える豊田佐吉氏が帰依しておられたらしいし、京都の老舗和装産業の代表格の〝千總〟一族のお墓もあるらしい。だから、まぁいいか。

 

かつて14世紀前半に、日蓮宗の妙顕寺が後醍醐天皇の勅願寺となり、その200年後の1536年には、比叡山・延暦寺の僧兵と洛中の法華一揆が戦うという「天文法華の乱」もあった。

 

それくらいに、京の町中は法華の宗徒で満ち溢れていた時期がある。「天文法華の乱」では法華一揆の側の頭領として、京都の富裕な町衆が多数この戦いに参加していたほどだ。

 

 

 

今も左京区松ヶ崎の涌泉寺に伝わる盆の行事の「松ヶ崎題目踊り」は、法華題目を唱えて踊るという。日蓮上人が「帝都弘通」という教えで、都での布教を目指し後継者がそれを実践していた。

 

その一端が、今日見学した妙満寺であり、さらに京都市上京区の寺之内地域などに数多くある日蓮宗や法華宗の寺々に表れている。

 

 

(上京区にある妙顕寺)

 

というようなことはさておき、妙満寺は私が完全に〝独占状態〟でお参りとお庭の見学を終えた。それからは、市内へ向かって南を目指して散歩を続けた。

 

 

 

まずは、妙満寺から南西に1kmほど歩いたところにある「圓通寺」へ向かう。その道すがらは、京都でも新興住宅地で、新道が縦横に通り、ゆったりとした規模の家が立ち並んでいる。

 

そして何よりも、比叡山が間近に見える。「圓通寺」は、この比叡山を借景とした庭が有名だが、あえてそんなことを言われなくても、この辺りのお家はどこも比叡山を借景として住んでいる。

 

 

 

ということで、峠越えをしている新道を「圓通寺」に向かい、旧道の「鞍馬街道」から「圓通寺」に着いた。こちらも、新しい門(?)と駐車場が作られているし、本堂に向かえば雰囲気が・・・。

 

 

 

 

この雰囲気には、ちょっと入る気が無くなったので、昔に来たこともあるからパスすることにした。それで、自動車がやっとすれ違えるくらいの道幅の「鞍馬街道」に戻って、南に向かった。

 

 

 

 

「圓通寺」のすぐ南に、「鞍馬街道」は岩倉・幡枝地区と上賀茂地区の境目となる峠がある。これをホントに息を切らせながら登って、下りになった途端に〝ベタ踏み坂〟が現れた。

 

 

 

 

歩いて下るのが、少し怖いくらい。転倒したら転がり落ちそうな気がする。そんな坂を下って行く。すれ違って上って行った軽自動車は、排気ガスの強い匂いを振りまいていた。きつそぉ~!

 

 

 

下りきった辺りで、深泥池貴船神社があった。本家の貴船神社は鞍馬寺のすぐ横になるから、京の町からは遠い。だから、ここに分家を勧請して神社を作った。昔だって、安易な話はあるのだ。

 

 

 

 

 

そのお社の横には、京漬物の〝すぐき漬〟の名前(酸い茎)の謂れの〝元〟となったという秋葉神社の祠があった。境内には〝ちから石〟なるものも。これもご愛嬌かと。

 

 

 

 

 

その神社のすぐ南には、「深泥池地蔵」があった。元は、京の入口の一つ「鞍馬街道」の入口を守っていたお地蔵さんだという。現在あるのは2代目らしいが。

 

 

 

 

それにしても、京都の6カ所の入口にある「六地蔵」のうち、現在の「鞍馬街道」の分は、その名も〝寺町鞍馬口〟という場所にある〝上善寺〟というお寺になっている。

 

 

 

 

なぜそうなったかは、この深泥池地蔵堂の丁寧な由緒書に書かれていた。〝へぇ~〟ということで。これでようやく、深泥池のほとりに出て来た。時刻はお昼を回ったところ。

 

 

 

叡電・木野駅を振り出しに、深泥池までおよそ4kmの散歩だった。ここからは、我が家の近くまで市バスが走っている。メタボ爺さんは、この寒い日でもしっかりと汗ばんでいた。