一言観音にがん完治と一言お願いして | がいちのぶろぐ

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今日の午前中は少し遠出をして、住所表示では伏見区というが、山科区の南の外れと言ったほうが、京都をよく知る人にはむしろわかりやすいような場所へ出掛けていた。

 

京都市伏見区醍醐と言えば、「太閤の醍醐の花見」で有名な桜の名所「醍醐寺」がある。その醍醐寺から、さらに1kmほど南へ行ったところに「一言寺(いちごんじ)」がある。

 

 

 

今日はこの「一言寺」まで出掛けていた。このお寺は正式には「金剛王院」と言い、醍醐寺の塔頭という扱いになっている。〝二つ名前〟を持ったお寺というのも変な感じがする。

 

「金剛王院」は平安時代にできたお寺だが、明治時代に醍醐寺から少し離れたところにあった「一言寺」の跡に移転したのだという。

 

 

 

京都市の作成した駒札には「一言寺」と表記されていて、その横にあった洛南保勝会が作成した表示板には、合併して「金剛王院 通称 一言寺」となったと記されている。

 

 

 

さらに山門をくぐって境内に入ったところには、「金剛王院(一言寺)」という京都市の駒札がある。わからん!どっちやネン!と言いたくなる。

 

とにかく市立醍醐中学校の前にある、京阪バス「一言寺」バス停まで行く。我が家からは、市バス・地下鉄東西線と乗り継ぎ、まず「椥辻(なぎつじ)」駅まで行った。

 

このあたりは、行政区としては山科区であり、椥辻駅の前には山科区役所もある。そこから京阪バスに乗って、「一言寺」バス停まで行った。我が家からここまで1時間15分。

 

バス停の近くには、「一言寺観世音」「これより東一町半」という案内の大きな石碑。「金剛王院」などという名称は、石碑のどこにも書かれていない。面白いものだ。

 

 

 

ホントに一町半≒150mほどなんだろうけれど、この道がかなりの急坂。爺さんは、坂の途中で息切れしてくる。山門の下に着いたら、さらに石段が待ち受けている。

 

 

 

山門のところで振り返ると足下には醍醐から山科の町と、その先には東山の峰を裏側から眺めることになる。もうかなり上までに登った。この山の頂は「上醍醐寺」にあたる。

 

 

 

ということで、「金剛王院の一言寺」へ。山門をくぐったところに、〝樹齢400年〟というヤマモモの老木がある。幹がすっかり〝えぐれ〟てしまい、洞(うろ)になっている。

 

 

 

説明の駒札では、それでも「樹勢は衰えておらず実もよくなります」と書かれていた。元気なこととまずは脱帽。それにしても、あちこち支えられながらも立派な姿をしている。

 

 

 

 

本堂にお参りすると、頭上には「ただたのめ 仏にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」という、ご本尊の〝千手観音〟の功徳を示す額が奉納されていた。

 

 

 

 

私以外にお参りする人もなく、本堂の脇にある「びんずる尊者」を祀ったお堂にもお参りをする。お寺を下り始めると目に入る、遠く東山を望んだ景色は良い眺めだった。


 

 

 

元のバス停まで下って、来た道を戻るバスに乗る。このバスは「醍醐寺」前から、小野小町ゆかりの「小野随心院」前を通る。「小野駅前」まで乗って、地下鉄に乗り換える。

 

地下鉄は、市内中心部の「京都市役所前」駅まで20分足らず。そこからは市バスで家に帰った。これで往復に2時間半を費やして、一言寺にはものの30分もいただろうか。

 

そもそも「一言寺」というお寺は、平家一門の悲劇を背負い、幼い安徳天皇を抱いて入水した〝建礼門院〟に仕えていた、「阿波内侍」が建立したとされる。

 

お寺のご本尊は「一言(ひとこと)観音」として、一つだけ願い事を叶えてくれると庶民に人気だったようだ。明治になって、それが醍醐寺の塔頭のお寺と合体してしまった。

 

だから、〝お寺系列〟的には「金剛王院」だけど、お参りする側の庶民にしてみれば、やはり「一言観音さん」がおられる「一言寺」だったということだろう。

 

 

 

一つだけ願いをかなえてもらえるということなので、私は当然〝ガンの完治〟をお願いしておいた。相手は〝一言観音さん〟だから、もちろん私もそれ以上は欲張らない。

 

それほど距離を歩いたわけではない。だけど、坂道を上り下りした疲労感はかなりなものだった。帰りには、小野随心院にも寄れるか思ったが、とてもそんな元気は無かった。