この間、時おりブログにも書いているように、京都・観光文化検定(京都検定)の1級を受けるかどうか迷ってはいるけれど、一応それなりには〝受験勉強〟を行っている。
そのため関連した本を読むだけでなく、本に記載されている私が知らなかったお寺などのことも、その所在地や宗派・寺宝など、いろいろとインターネットで調べることがある。
例えばインターネットのGOOGLE MAPなどで、お寺の所在地を調べ、航空写真の地図を眺めていると、それぞれのお寺にはけっこうの広さの墓地があることに気付く。
当たり前と言えば当たり前のことなのだが、航空写真で空から〝鳥の目〟で眺めると、京都の町の中にはかなりの墓地があることに、今さらながらビックリさせられる。
例えば、清水寺のすぐ南側になる大谷本廟(西本願寺の墓地)などは、現在は広大な墓地であり、かつては京都の葬送の地の一つだった「鳥辺野」に当たっている。
(大谷本廟の墓地の航空写真/鳥辺山という文字も見える)
墓地の航空写真を見ていると、こうしてお墓があって、そのお墓へお参りする人がいることが、これからもずっと当たり前のことなのだろうか、と思うようになってきた。
私たちがごく普通に話す言葉として、〝イナカがある〟という言い方がある。この場合のイナカとは、〝出身地なり実家〟という意味で使われている。
そして、自分の〝家の墓〟もその〝イナカ〟にあったりするわけだ。だからせめて年に一度、お盆には墓参りを兼ねて帰省をするという人が多くなる。
つまり現代においては、実家なりその近くに住み続けられるかどうか、という問題がある。むしろ、遠く離れて居住することの方が一般的になっている。
しかも、長男であるとか次男であるといったような、家族内でのポジションというか〝つながり方〟の問題もある。
もっと言えば、現在の状況だから結婚をするかどうかという問題がある。必ず結婚をするとは限らない。また結婚はしたけれど、離婚して独り身ということも普通のことだ。
さらに言えばLGBTQであったり、事実婚という形態だったりと、結婚という制度そのものへの疑問もある。そうなれば、〝家の墓〟という概念自体が成立しにくくなってくる。
そうした様々なケースを考えた場合、これからも簡単に我が家の〝墓参り〟と言ってしまえるのか、という疑問が湧いてくる。
自分にとって〝墓〟の持つ意味は何か、という考え方そのものが、正解は一つだけということは有り得ない。つまり〝家の墓〟という考え方だけとは限らない。
個々人がそれぞれの考え方の下に、どのような〝死後〟を選ぶのか。それ自体が問われることになる。お盆だから我が家の墓参り、という時代ではなくなってくるだろう。
ふと、航空写真の地図を眺めながら、そんなことを考え込んでしまった。死ぬことだけでも『終活』などと言われるくらい大変なことだけど、死後の選択も難しい時代になった。
そもそも夫婦が揃って一つの墓に入ることも、「私はご免蒙りたい」という女性が少なくないそうだ。〝死んでまでなぜあんな人と〟などと言われたら、こちらも立つ瀬がない。
こんなことを、あれこれと考えてしまう。そうすると、死ぬことも簡単なことではないのだと、それだけでも頭の隅に、いや頭のド真ん中に置いておかないと。