院の御所への大汗の散歩 | がいちのぶろぐ

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かなり長い時間をかけて、「院政(増補版) もう一つの天皇制」(美川 圭、中公新書、20062021増補版)を読み終えた。新書判で280ページほどの分量なのだが。

 

 

 

終章の「院政とは何だったのか」という、増補版に新たに収録された部分で、著者の美川氏が「一般的に、十一世紀末の白河院政に始まり、十二世紀の鳥羽、後白河、十三世紀の後鳥羽までが典型的な院政とされている」と書いている。

 

時はまさに平安時代の後期、白河上皇が洛中とは鴨川を挟んだ東側の岡崎(白河)の地に新たな政治の中心となる場として「白河殿」を建設した。ゆえに、死後に白河天皇と諡号(送り名)をされた。

 

さらに、白河上皇は京都市の南部・鳥羽地域にも「鳥羽殿」を建設した。白河上皇を受けた鳥羽上皇は、この「鳥羽殿」に自分の死後を祀る安楽寿院を設けて、鳥羽上皇という諡号を与えられた。

 

 

 

まさにこの2人の上皇による院政が、藤原摂関家との確執の中での天皇家の一つのあり方を作り上げたということらしい。

 

しかし鳥羽上皇の死後、崇徳上皇と後白河天皇の兄弟対立が先鋭化した辺りから、平家や源氏の武士を巻き込んだ対立抗争が繰り広げられるようになり、保元の乱・平治の乱という血を見る戦いを経て、平清盛の政権が誕生してくる。

 

後白河上皇は平清盛と手を結ぶことになり、鴨東の地に「法住寺殿」を築いて、そのすぐ北の「六波羅」に居を構えた平家と共生する。

 

しかし後白河法皇「周辺による平家打倒の密議が発覚し、その側近らが清盛によって断罪される。鹿ケ谷事件である」といった状態になる。

 

こうなってくれば、もはや誰が味方で誰が的なのか、さっぱりわからないという混乱状態と言ってもいいだろう。

 

そんな中で、後白河上皇(法皇)の息子の以仁王(もちひとおう)の挙兵と敗北から、一気に平家追討という雰囲気が出て来て、源氏の勢力が平家を追い落とすことになる。

 

ここから、ご存知の木曽義仲あり、源頼朝と義経の兄弟ありと、私たちが大好き(?)な源平合戦が繰り広げられて行く。後白河上皇(法皇)とは、そういう時期の「王家」だったということになる。

 

この美川氏の著作「院政」を読んでいたから、後白河上皇ゆかりの「法住寺殿」の跡地にある「新熊野(いまくまの)神社」に出向き、後白河上皇〝お手植え〟といういわれの「大樟」も見物した。

 

 

 

 

 

新熊野神社には、後白河法皇の坐像も飾ってあった。さてそうなって来ると、実はもう1カ所是非行っておきたい場所があった。それは「六条殿」という、後白河法皇の終焉の場所である。

 

 

 

後白河法皇の拠点だった広い「法住寺殿」も、その一角にあった「三十三間堂(蓮華王院)」が焼失したりと色々なことがあった。

 

 

 

さらに、後白河法皇は鎌倉に幕府を開いた源頼朝との関係も、同盟やら駆け引きやら対立やらを繰り返しつつ、それでも国の東と西で持ちつ持たれつという状態になっていた。

 

そんな後白河法皇が晩年には、洛中の六条通に「六条御所」を構えていた。その御所の中にあった法皇の持仏堂が「長講堂」として現存している。

 

 

 

 

しかもその場所が現在も「六条通」に接している。そして「長講堂」の北東側には、女人守護の神様として名高い「市比賣神社」がある。

 

 

 

 

 

ということで昨日の午前中は、最初に堀川通りの西本願寺とその近くの本願寺伝道院から歩き始めて、東に向かい「長講堂」まで行き、最後に〝お隣りさん〟の市比賣神社まで散歩をしてきた。

 

 

 

 

 

 

 

午前中であり、わずか1時間余りの散歩とはいえ、とにかく暑かった。帰宅するために河原町五条からバスに乗った時には、全身がずぶ濡れと言っても良いほどの汗だった。

 

長講堂に行っても、通常は中に入っての拝観はできない。〝なのになぜ行った〟と言われると困ってしまうのだが。そうかこんな場所なのか、という自分に対する確認でもある。

 

それともう一点、この「六条通」というのは、京都市内でもあまり恵まれた扱いを受けて来なかったと思う。

 

 

 

平安期のメインストリート二条通、江戸期のメインストリート三条通、現代のメインストリート四条通、牛若丸と弁慶でも有名だし、秀吉に付け替えられ、今は広い国道の五条通、JR京都駅の正面側に近い七条通と、その反対側の八条通、東寺の塔がある九条通。

 

一条通は、平安朝ができた当時、都の北の端の通りだったという位置付けがある。さて、こういう状態でも「六条通」という名称が、どんな引っ掛かりからも出てこないのだ。

 

市バスの停留所ということであれば、烏丸六条と西洞院六条という停留所がある。だけどそれ以外、京都に住んでいても、滅多に意識の中に「六条通」として浮かんでこない。

 

六条通とは、そんな不思議な通りでもある。だからこそ、そんな通りに沿ってある「長講堂」に行ってみたかった。本当に、くそ暑い最中に行くほどの場所か、と自分でも思う。

 

でも、美川氏の「院政」という新書を読んでから、この後白河法皇終焉の地がどうにも気になっていた。ということで昨日やっと行ったので、何だかホッとしたというと変だが、そんな気分になっている。