「安心安全」とはかけ離れた状況だ | がいちのぶろぐ

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「労働安全衛生」と言うと堅苦しい感じがする。しかしその労働安全衛生の「基本のキ」として『安全第一』と『整理整頓』という標語がある。

 

『安全第一』とは、「何があってもまず安全に配慮する」ということである。「ちょっと意味が解らない」と言う人は、多分いないだろう。「命あっての物種」だから。

 

それに対して『整理整頓』と言われた場合、良く似た言葉だけれど『整理』と『整頓』とは、何がどのように異なっているのだろうか。

 

 

 

これが案外気にせずに使われていて、あらためて〝何が違うのか〟と中味を問われると、〝さて、ハテナ〟ということになり、困ってしまう人も決して少なくない。

 

労働安全衛生の分野では、この『整理』と『整頓』という言葉は、ワンセットで使われることが多いけれど、キチンと違いが定義分けされている。

 

厚生労働省のホームページなどには、こうした「整理・整頓・清掃・清潔・躾」といった「5S」などと総称される言葉の定義なども掲載されている。

 

そこで『整理』とは「必要なものと不要なものを区分し、不要、不急なものを取り除くことです。要るもの、要らないものに分けるためには、何らかの判断の基準が必要になります」と説明されている。

 

つまり、「現場の作業方法では必要と認められていても、その場所にその物が必要か、それだけの量が必要かなどの改善の余地はないかを検討し、よりよい方法が見つかればそれを新しい判断の基準、すなわち作業標準として定めてゆくこと」ができる。

 

一方で、『整頓』とは「必要なものを、決められた場所に、決められた量だけ、いつでも使える状態に、容易に取り出せるようにしておくことです。工具・用具のみならず資材・材料を探す無駄を無くすこと」ができるとなっている。

 

しかも『整頓』する以上は、「安全に配慮した置き方をすることが大事」になってくる。このように、『整理整頓』として〝4文字熟語〟のように使われても、中味は異なっている。

 

『整理』とは「不要なものは、まず片付ける」ということが大前提になる。そのためには、「何が必要なのか」についての〝判断基準〟を共有しておくことが必要になる。

 

また『整頓』とは「誰もが、必要な時には容易に取り出せる」ようにしておくということだ。だから、「何がどこにあるか」を全員が共有し、ルール化されることが必要になる。

 

長々と安全衛生の話をして、私は何が言いたいのか。こうして誰もが呪文のように唱える、4文字熟語のように馴染んでいる言葉が、ある時に独り歩きし始めることもある。

 

そのことが、現在、国民を分断する大きな課題というかテーマとなっている。『安心安全』という言葉である。「どこかの誰かさん」が、呪文か念仏のように唱えている言葉だ。

 

『整理整頓』について長々と述べたが、それが「似ているけれど異なる中味」を示していたように、『安心』と『安全』も明らかに異なる中味を示している。

 

冷泉彰彦氏というアメリカ在住のジャーナリストの方が、ご自身のブログで「コカ・コーラの誤算。五輪会場持ち込み飲料を限定させたオワコンの自爆マーケティング」と題して書いておられた。

 

このコカ・コーラの問題は、私も昨日のブログに書いた。コカ・コーラがそれを指示したかどうかはわからないけれど、オリンピックの競技会場にコカ・コーラ以外の飲料を持ち込む場合は、組織委員会が「ラベルを剥がせ」と言い出したという問題である。

 

この件は、とりあえず今日の話題としては取り上げない。この冷泉氏のブログで、コカ・コーラの問題以上に取り上げられていたのが『安心安全』という話だった。

 

 冷泉氏は『安全』とは「科学的な推論や事実だから、そう複雑ではない」けれど、『安心』は「心理的、主観的な問題だから極めて複雑」だと書いておられる。

 

「科学的な判断をして安全を確保するのがよく、またそれ以外のことは必要ないのであって、不安心理に振り回されて『安心』のために労力とコストを使うというのは、間違いなのか?冷静に現実を直視して『安全』だけに徹すればいいのか?」と問い掛けられる。

 

もちろん「答えは『ノー』」となる。現代社会は、「科学的な安全を保障はしないが、心理的な安心を提供するモノやコトに多くの労力とコストをかけるようになった」からである。

 

それは「科学的には安全でも、心理的には安心ではないという部分にも対策を打っていくということは、はるかにコストと労力がかかる作業」になるから。

 

しかも「安心というのは人にとって千差万別であり、場合によっては異なった安心意識が衝突することもある」というくらいに面倒なものでもある。

 

これは人間が「自分の経験などから理解し、自分でコントロールできる危険とは共存できるが、そうした範囲を超える『理解不能なもの』(中略)に対しては、『危険回避の本能』を発動してしまうようにできている」からだと言われる。

 

だからこの「『危険回避の本能』が不安感情であり、これに対して、その不安感情を除去することが『安心』の確保」だということになる。

 

つまり、現在世界を覆っているコロナ禍という状況は「自分でコントロールできる危険」ではなく、「理解不能なもの」と言えるだろう。

 

だから「その不安感情を除去することが『安心』の確保」なのであり、その場合、純然たる科学の問題として『安全』について説明されたとしても、それだけでは『安心』は得られないことになる。

 

だから菅総理が念仏を唱えるように、口を開けば『安心安全』なオリンピックと言っても、国民にしてみれば、せめて科学の問題として説明される尾身会長の『安全』の話の方に、まだしも理解できる部分を見出すのである。

 

その尾身会長の口から、オリンピックの会期中には感染者数が爆発的に増えると言われたら、国民は「危険回避の本能」から〝オリンピック否定〟へと向かう心理になってしまう。

 

菅総理が吐き出す言葉と、その時の目線や態度、雰囲気には、国民の「危険回避の本能」から来る「不安感情」を除去できる力が決定的に欠けている。

 

さらに、「心理的な安心を提供するモノやコトに多くの労力とコストをかける」という、丁寧な対応がカケラも見られないというか、その努力もまったく欠けていると思う。

 

そんな状況に輪をかけるように、開会式の音楽担当の小山田圭吾氏の「いじめ」問題に、今日はディレクターの小林賢太郎氏の「ホロコースト発言」と問題が続発した。

 

これはもう、現状でオリンピックを強行開催しようということ自体が、根本的かつ徹底的に〝無理筋〟の話なのだ。そんな気がする、知らんけど。