今日は午後から、私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体のミーティングが、久し振りにリアルに顔を合わせて行われた。
それと言うのも、私たちと協力関係にある日本語学校の方が、先日からの話の流れでミーティングに参加することになり、それではということでリアルに会うことになった。
このコロナ禍によって、外国人の日本への新規の入国がほぼ認められていないという状況で、日本語学校も学生が集まらないから、経営的に大変な苦労をしておられる。
それ以上に厄介なのが、コロナ禍の前の一昨年秋に日本に来て、現在は何とか在留ができているが、この秋には2年間の就学期間が終わる学生たちの進路問題だそうだ。
来春の大学進学を目指すならまだそれほど問題はないけれど、この秋から来年初めにかけて、日本の企業などへ就職を希望している場合、特に困難な問題があるそうだ。
日本の企業も先行きが見えない中で、経営状態がどうなるかもわからないから、外国人従業員の採用には簡単に踏み切れない。
そうなればこうした日本語学校の学生で、自分の国で大学を出てから来日し、日常会話は問題ないレベルまで日本語を学んでも、その後は帰国せざるを得なくなる。
そう言えば、昨日のダイヤモンド・オンライン誌で、ジャーナリストの姫田小夏さんが「日本で働く中国人が受けている『深刻ないじめ』、外国人労働者軽視の実態」と題する記事を書いておられた。
記事によれば、職場で日本人側が「外国人材のささいなミスに目くじらを立てる傾向」は否めない。「受け入れ側である現場の意識は変わっていない」ということらしい。
だから、「職場がこんな状況では、外国人が日本に定着するとはとても考えられ」ないということになる。そんな中、記事ではわかりやすい〝あるある〟の事例が紹介されていた。
外国人従業員の場合であれば、「客先にメールをするのにも、細心の注意を払わなければ」ならないというケースだ。
その事例では、「メールの内容をまず下書きし、その表現について『これで大丈夫だろうか』と何度も推敲する」と紹介されていた。
それだけでは不十分だと思えば、「時には親しい日本人の友人に、どのような敬語を使ったらいいか、アドバイスを求めることもある」とも書かれていた。
「敬語がうまく使えないと、相手の日本人からは“偉そうな態度”だと誤解されてしまう」からだ。それって、外国人従業員だけには限らない。日本人従業員にだって起こり得る。
だけど外国人にしてみれば、「冒頭の挨拶文から末尾の締めくくりの言葉に至るまで、ささいな表現でも相手の気分を害さないようにと、神経をすり減らせている」という。
これは外国人に対する職場での『パワハラ』や『いじめ』といった問題ではなく、日本人も含めて、従業員教育のあり方という問題になってくるだろう。
まして、日本語を母語としていない外国人にしてみれば、日本語で多用される敬語や謙譲語はとても難しい。日本語の能力としても、最上級レベルの要求になってしまう。
いや日本人で、大学を出たての新入社員の場合も、どれくらいがきちんとビジネス・メールなどを作成できるだろう。現在の大学生の日本語能力では、多分無理な注文だと思う。
LINEなどの短文メールならともかく、キチンとしたビジネス・メールを書く教育など、大学卒業までに受けたことがない学生が大部分だろう。大学の役割からしてそれは当然だ。
それ以上に、最近の若い人を見ていて思うのは、日本語のボキャブラリーの貧困という問題がある。今や活字離れではなく、動画や音楽に親しんで、『文字離れ』が起きているから。
さらに、まだまだ日本企業では多いだろうと思われる、「立場の弱い新人はターゲットになりやすく、上司のストレスのはけ口になりやすい」という問題もある。
そこへ外国人従業員という、もう一段のハンディキャップが重なると、「言葉にハンディを持つ立場的に弱い外国人材」にしわ寄せが行くことも容易に想像できる。
この記事の筆者の姫田氏も、「昨今、世の中の目が『パワハラ』に厳しく」なっているけれど、「日本企業はもう一度社内を点検する必要がある」と結んでおられた。
私たちの団体の活動として、定住外国人とのコミュニケーションの手段として「やさしい日本語」の有用性を広めたいと思っている。
しかしそれ以上に、かなり高いレベルの日本語を使いこなせる外国人であっても、ビジネスの場面できちんとした言葉の選択は容易ではない。
しかし、そうしたところまで一気に求めるような職場の雰囲気があれば、外国人材の定着はやはり困難になってしまうだろう。
それでは「やさしい日本語」ではなく、〝難しい日本語〟を日本人の若い人も含めて、どれほどの人が使いこなせるか、という話になってしまう。これは難しいことかも。