民俗学という思考方法 | がいちのぶろぐ

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この間、何冊も並行して読み進めていた書籍の1冊に「みんなの民俗学~ヴァナキュラーってなんだ?」(島村恭則、平凡社新書9602020)というものがあった。

 

 

 

民俗学についての基礎的な解説、数多くの事例から導き出される面白い内容、アップテンポな文章の書き振りが混ざり合って、実に楽しく読むことができた。

 

何よりも序章の「ヴァナキュラーとは<俗>である」の中の、「民俗学とはどのような学問か?」「ヴァナキュラー」の部分で、民俗学の基礎知識が分かり易く説明されている。

 

私たちが〝民俗学〟という言葉や、その英語版である〝フォークロア〟という言葉と出会うと、柳田國男や宮本常一、谷川健一といった大先達の方々の名前が頭に浮かぶ。

 

そこで著者の島村氏は、「民俗学とは、人間(人びと=<民>)について、<俗>の観点から研究する学問である」と、まず一点突破を試みておられる。

 

さらに「ここで<俗>とは、①支配的権力になじまないもの」と、直球勝負である。次に「②啓蒙主義的な合理性では必ずしも割り切れないもの」と言われる。

 

〝支配的権力の側〟に立つ考え方ではなく、〝啓蒙的な合理性〟では必ずしも説明が付かないものが<俗>というキーワードの中に込められている、というのだ。

 

そして「③『普遍』『主流』『中心』とされる立場にはなじまないもの」や、「④公式的な制度からは距離があるもの」という、①から④までのいずれか、またはその〝組み合わせ〟だという。

 

そして「ヴァナキュラー」とは、この「<俗>を意味する英語」であり、「現在の民俗学」は、決して「農山漁村に古くから伝わる民間伝承を研究する学問」ではない、と言われる。

 

だから、「民俗学が、対啓蒙主義的、対覇権主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的な学問であることは、日本の民俗学でも同様である」と、柳田國男などの存在を肯定的に捉えておられる。

 

その点を、谷川健一氏の「神は細部に宿り給う――地名と民俗学」(人文書院、1980)から次の部分を引用して、説明としておられた。

 

「歴史学が人類の主要な道筋を辿る学問であるのに対して、民俗学は枝道や毛細管のように張りめぐらされた小路を知る学問である。」

 

「したがって歴史学やその他の学問には取るに足りないと思われているものこそ、民俗学にとっては限りなく重要である。」

 

だから谷川健一氏も、「細部の日本を見きわめることへの情熱が私を今日まで駆りたててきた」と書き記しておられる。

 

著者の島村氏もその後で繰り返して、「<俗>は、観点であると同時に、この観点によって切り取られた研究対象のことをも表している」と、ヴァナキュラーという用語を解説しておられる。

 

つまり、「いつしか世の中の人々はフォークロアを、『時代遅れの田舎の農民たちが伝えている、どこか奇妙で、でも懐かしいものごと』として」イメージするようになる、というのだ。

 

そこでこれまで使用されてきて、「誤解されがちな『フォークロア』の語を避け、『ヴァナキュラー』の語を、民俗学の研究対象を表す新たな術語」として用いるようになった。

 

詰まるところ、柳田國男は「『現代』を知るための手段として『過去』を参照している」ということだ。「あくまでも『過去』を用いた『現代』学なのである」と島村氏は強調されている。

 

このようにして、「現代都市をフィールドとする都市民俗学の研究が行われるようになった」ということだった。この序章の部分を読んだだけでも、私自身はワクワクしてしまった。

 

民俗学が持っている「対啓蒙主義的、対覇権主義的、対普遍主義的、対主流的、対中心的」という特徴の中でも、「対覇権主義的、対主流的、対中心的」というのは、私自身の思考や行動の中にも現れていると思う。

 

そもそも私が現在関わっている、定住外国人とのコミュニケーション手段としての「やさしい日本語」を広めるということだって、〝非主流・周縁的なもの〟である。

 

日本人に向けては、多少の啓発的なニュアンスはあるけれど、決して普遍的なことでもなければ、覇権主義とはまったく縁遠いものである。

 

このブログでも、「中央←→地方」という図式的な表現は、可能な限り避けてきたつもりである。〝中央≒東京〟〝地方≒東京以外〟という図式からは、新たな何ものも生まないと思うから。

 

ということで、<民>の<俗>を対象として、そこからどんなことを掬い上げるかは、それぞれの感性と観点ということになると思う。

 

また最後の部分で島村氏は、今回のコロナ禍とともに急速に知られるようになった「アマビエ」という妖怪に関連して、「フォークロレスク」という言葉を紹介しておられた。

 

 

 

SNSなどで「#アマビエ」などを付けて、図像などが次々と生み出され、拡散して行ったが、この「一連の作品群も、フォークロレスクにほかならない」という。

 

要するに、「『いかにも民間伝承らしい要素』が(中略)ポピュラー・カルチャーの中に取り入れ」られることを、「フォークロレスク=フォークロア的・フォークロアっぽい」というそうだ。

 

アニメの聖地巡礼からスタートしながら、そこを訪れる人には、いつの間にか〝本当に有る伝承〟などの認識になってしまうことは、このフォークロレスクに当てはまるという。

 

民俗学という学問が前提条件として持っている考え方自体が、私にはとってもなじみやすい考え方だと思われた。