梅雨らしい天気の日だった | がいちのぶろぐ

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今日は〝梅雨らしい〟と言えば、その通りという天気になっている。きょう未明から降り始めた雨は、朝のうちには降り止んだ。夕方になって、少し青空も見えた。

 

いったんは梅雨入りしたものの、〝梅雨の中休み〟と言うにはかなり早くから、そしてかなり長い間のお休みがあった。それがまた、梅雨らしい雨と曇りの空が戻ってきた。

 

 

 

私個人としては、長雨が続くのは決して嬉しいことではない。ただ空梅雨だとお百姓さんが困るという話になる。そんなことを、ホントに理解している人はどれくらいいるだろう。

 

それよりも、空梅雨だと都市部の水道水の水源となる貯水池が、夏になって干上がってしまう恐れが出て来る。そうなれば、夏の間は節水だとか給水制限という話になる。

 

 

 

そちらであれば、多少は実感として感じる人もいることだろう。逆に、田んぼに水を張っている光景など、気をつけて見たこともないという人も、もう少なくないだろう。

 

家庭用菜園だとか貸農園だとか、〝畑仕事〟を楽しむ人は少なくない。ましてやマンション暮らしで庭はないけれど、ベランダでのガーデニングは好きという人も多い。

 

だが、水をはった田んぼで田植えをして、それから秋口まで自分で稲を管理し育てて、刈り入れをしたという経験を持っている都会人は、もはやそれほど多くはないだろう。

 

 

 

つまりはそういう時代なのだ。今では農業人口は少なくなったし、都市部で定年になったから、実家に戻って農家の仕事をするという人も少なからずある。

 

昔話をしても仕方がないけれど、農繁期には会社に休暇を取って実家に戻って手伝う、という人もあった。今ではそんなことすら、少なくなってしまってから久しい。

 

第一、〝農繁期〟という言葉そのものが、都会に住む人に取って見れば〝死語〟も同然だろう。田植えの時期や、稲の刈り入れ時期が農繁期になるのだが。

 

だから、稲の刈り入れ=収穫が終われば、秋祭りで氏神さまの前にみんなが集まり、笛や太鼓で賑やかしながら、豊年満作を祝うという段取りになっていた。

 

そんなことは、童謡や日本昔話の中にあるだけの世界になってしまった。そう言えば随分以前に、仕事で埼玉県の秩父市へ出掛けたことがあった。

 

その時、土産物屋さんで売られていたTシャツに、秩父音頭の歌詞の一節がプリントされているのを買ったことがあった。きっと、秩父音頭の中でも最も有名な一節だったと思う。

 

♪蚕仕舞うて 麦まき終えて 秩父夜祭り 待つばかり

 

 

 

養蚕の仕事が一段落し、稲の収穫と裏作の麦蒔きが終わって、さあこれで農作業は一息ついたから、あとはお祭りを待つだけになった、という内容の歌詞だろう。

 

私は秩父音頭の節回しそのものは知らないけれど、この歌詞の中に人々の実感がこもっているのだと思う。だからこそ、この歌詞がTシャツにプリントされていたのだろう。

 

 

 

梅雨という季節があることが、この国に暮らす人にとって、一つの節目になっていたのだと思う。そうした感慨を持つ人も、もはや稀な時代になったということだ。

 

願わくは、梅雨の終わりに豪雨の被害、などという嬉しくない話は無しにしてほしい。と同時に、梅雨明けにはオリンピックの強行開催で、夏には感染者爆発ということも。