蚕の社から広隆寺へ汗だくの散歩 | がいちのぶろぐ

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思わず、〝暑いよ~〟と言いたくなる。この数日間、いきなり32℃超えの日が続いているのだから。この暑さに、身体がまだ馴染んでいないから、老体にはこたえることに。

 

とは言え、今週末から来週にかけて、また梅雨らしい雨空が続きそうな予報になっているから、晴れている間にできるだけ散歩をしておこう、という気になっている。

 

そんな屁理屈で、今日も午前中に〝不要不急〟の外出に敢然と挑戦した。ということで、今日は我が家からすればかなり遠くになる〝太秦(うずまさ)〟地区まで出掛けた。

 

まず目指したのは、『蚕の社(かいこのやしろ)』という通称で知られている「木嶋座天照御魂神社」へ。これで「このしまに・ます・あまてる・みたま・じんじゃ」と読む。

 

 

 

 

そもそもは「太秦」という地名が、京都でもトップクラスの〝難読地名〟。渡来系で養蚕や土木・建築技術に優れた秦(はた)氏一族が、平安京以前から桂川流域に定着していた。

 

その秦一族の、いわば氏神様のような存在だったのが、この木嶋神社ということになる。しかもこの一族が持っている養蚕技術は、当然ながら染織へとつながっていく。

 

 

 

それで本殿の脇には、摂社として蠶養(こかい)神社があって、西陣織など繊維関係の信仰も集めていた。それで通称は「蚕の社」ということになる。〝蠶〟は蚕の古い字。

 

 

本殿の前の玉垣の部分にも、江戸時代の「西陳 縮縮緬仲間」と彫られていた。西陣の陣の字も〝陳〟になっているし、〝縮縮緬〟も〝ちぢみ・ちりめん〟と読むのだろう。

 

 

〝縮〟や〝縮緬〟とは、表面に細かい〝しぼ〟という皺(しわ)がある織物で、その皺の形状から縮緬雑魚(ちりめんじゃこ)という呼び名も生まれている。

 

小千谷縮(おぢやちぢみ)や結城紬(ゆうきつむぎ)など、京都・西陣だけでなく全国にも名を知られた産地もあるが、やはり元々の本場は西陣ということになるのだろうか。

 

それとともに、神社の本殿の左奥に「元糺(もとただす)の池」という、今では枯れてしまった小池があり、その中島に立つ鳥居は明神鳥居を組み合せ「三柱鳥居」になっている。

 

 

 

明神鳥居は、普通に私たちが目にする鳥居で、そこをくぐり抜ければ終りという〝平面〟である。ところが「三柱鳥居」は、明神鳥居を3個組み合わせて正三角形になっている。

 

 

 

つまり、これをくぐり抜けるという発想はないということになる。だから真ん中に御幣が祀られているし、こんな鳥居は他にはないから〝京都3珍鳥居〟の一つに数えられている。

 

この「蚕の社」が面している道は二条通になる。ここを西へ10分ばかり歩くと、この通りが三条通と交わる場所に、『広隆寺』というお寺があり、その北側には太秦映画村がある。

 

 

 

広隆寺は、〝聖徳太子建立七大寺〟の一つであり、秦河勝(はたのかわかつ)という秦氏の首長が聖徳太子から本尊の〝弥勒菩薩〟を賜り、603年に建立したとされている。

 

 

 

古くは蜂岡(はちおか)寺・秦公(はたのきみ)寺とも言われ、少し離れた場所にあったらしい。秦一族の朝廷に対する様々な功績から、「太秦」という地名も付けられた。

 

 

 

本尊の弥勒菩薩は、〝半跏思惟像〟として超有名な仏さまで、国宝第1号に指定されている。今日は宝物館に入る時間もなかったので、この菩薩さまとは会わずじまいだった。

 

 

 

蚕の社から広隆寺まで歩くだけでも汗が凄かった。それにしても、広隆寺の本堂は「上宮王院太子殿」と名付けられている。広隆寺全体が、聖徳太子のオンパレードになっている。

 

 

 

 

広隆寺の前からバスと地下鉄を乗り継いで、家に帰り着いたのは12時半を少し過ぎたころだった。10時ごろに家を出たが、やはり結構の時間が掛かってしまった。