梅雨の中休みが続いている | がいちのぶろぐ

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五月最後の日。例年だと〝梅雨入り近し〟と思う頃。でも今年は2週間ほど前に、早々と梅雨入り宣言が出されている。それにしては、この数日好天続きで梅雨という気がしない。

 

 

 

ただ明日からは〝衣替え〟の時である。中学や高校で制服があるところが、61日から一斉に〝夏服〟に変わるのも変なものだと思う。暑ければ、自由に服を選んで着れば良い。

 

そこを杓子定規に〝何時いつからは、これを着る〟といったように、硬直化して決めてしまうことが正しいとは決して思えない。でも、今だにそうする学校が少なくない。

 

一度何かを決めると、それに〝従うこと〟が正しいことになり、それから外れることは許されない、という考え方に凝り固まってしまう。その反動で制服不要論が出て来る。

 

この間批判の対象になっていた、LGBT法案に関する自民党の考え方も、世の中には〝男・女〟だけがあるという固定観念でしか考えられないから、事の本質がわからなくなる。

 

それは、〝夏服は、61日から9月末日までの期間だけ着ることができる〟という規則を一方的に押しつける、学校側の発想と同じなのである。

 

世の中には、太っているために他人より〝暑がり〟の人もいれば、体質などで夏でも〝寒がり〟の人もいる。

 

そうした個人的な違いをいっさい無視して、一律に枠にはめてしか物事を見られないと、制服着用の場合の〝期間厳守〟のように、どう考えてもおかしな発想になる。

 

それぞれの人には〝個性〟があって当然なのだ。そうした〝個人差〟を認めることが出来ないのは、すべてを〝枠にはめたい〟という、支配者・管理者の発想でしかない。

 

この間のコロナ禍に際して、『同調圧力』という言葉を聞くようになった。ただし、〝マスクをする〟というのは、誰にとっても感染防止に有効だから、そこには個人差がない。

 

もちろん、〝かぶれやすい〟などの個人的な事情はある。だから、マスクの材質などで調整する必要もあるだろう。それでも、マスクをすること自体が他者への意思表示でもある。

 

 

 

一方で、〝店の営業を続けているのがけしからん〟と言って、ルール通りに営業している店の扉に、深夜に『営業止めろ』と書いた貼り紙をするのは、明らかに『同調圧力』だ。

 

 

 

この間、世の中が『不寛容』になって来ている、という指摘がなされることもある。確かに過去と比較すれば、『寛容さ』というものの判断基準が変わって来ていると思う。

 

それはこれまで、〝表だって〟声を上げることができなかった人たちも、声を上げる機会なり手段ができことに由っている。つまり、言いたくても言えなかった結果だったのだ。

 

〝嫌だ〟と言えない(言うと不利益を被る)から、言えないままにじっと耐えていた人たちがいることに、気付かなかったり気付いても無視していたことからの『寛容さ』だった。

 

本来はそこで〝寛容〟になってはいけない場合にも、誰かが耐えて我慢してくれていたから、その状況や人に対する〝負んぶに抱っこ〟で、みんなが済ませていたに過ぎない。

 

そのことに、もっときちんと気付くべきであり、〝個人差があることが当たり前〟という、それこそ当たり前のことを、みんながもっと理解すべきなのだ。

 

明日から6月という、ちょうど切れ目というか季節の境目の時期になって、今日は我が家も、梅雨の晴れ間だから大量の洗濯物が出ていた。

 

 

 

家人は朝から、洗濯機を3回も回す羽目になっていた。そんな時期になって、ふっと気になることに思いがいってしまった。