書店で、背中で微笑みかけてくる文庫本 | がいちのぶろぐ

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昨日は、朝8時半に家を出て京大病院に行った。血液検査の採血があり、内視鏡検査や腹部CT撮影があり、主治医との面談があり、最後に約1時間の点滴治療があった。

 

 

 

その間に、あちらこちらで待ち時間が発生し、主治医と面談の後で、点滴のために呼び出しが掛かるまでは、なんと1時間半の待ち時間で読書タイムになった。

 

さらに、3週間前に依頼しておいた入院期間等の証明書ができ上がっていたが、それを受け取るのに、またあれこれと話合いがあって、家に戻れたのは午後5時前だった。

 

内視鏡検査のため一昨日の20時から絶食になり、昨日は内視鏡検査の終了後、待ち時間を縫うようにして、12時半ごろにやっとコンビニの〝おにぎり〟を胃袋に放り込んだ。

 

そんな状態だったから、家に帰り着いた時にはさすがにグッタリしていて、ブログを書くどころの騒ぎではなかった。とにかく、体を休めたい一心だった。

 

ということで、昨日はブログを書く気力がなかった。まずは、その言い訳から。

 

ということだが、昨日の夕方から降り始めた雨が、今朝9時ごろになってようやく降り止んでくれた。そこで今日の午前中、先日は品切れだった本を探しに別の書店に出掛けた。

 

正確に言うと、数日前に大垣書店の本店に立ち寄ったが、探していた本がなかったので、同じ大垣書店の烏丸三条店という、本店よりも売場面積が広い店に出掛けて探してみた。

 

まあ、昨夜のうちに大垣書店のホームページの在庫リストをチェックして、この店にあることを確認の上で出掛けた。といっても、とりあえず「在庫僅少」という表示だった。

 

だから、僅少だろうと有るのだからと思って行ってみた。あれば手に取ってチェックしてみて、面白そうなら買おうと思っていた。そこがアマゾンで買うのとの違いである。

 

誰それの小説、何という名前の小説、などのように、決め打ちができるのであれば、アマゾンで買っても間違いがない。こういう場合には、その本だと決められるから。

 

だけど何かの拍子に、本のタイトルや著者名などを知る機会があっただけで、その中味が面白そうかどうか正確にはわからない場合、やはり手に取ってパラパラと見てみたい。

 

だからこそ、大型書店という施設が「都市インフラ」として欠かせない。ところが、出版不況というか、本を読まない人が増えたせいか、京都市内では大型書店が減って行く。

 

京都は学生の町だと言いながら、その学生が書店に近寄らなくなっているのだろう。だから都心部の大型書店は、店舗の家賃だけでも耐えられなくなってしまう。

 

それに輪をかけて、コロナ禍で外出自粛の状況である。だから今日も、大垣書店烏丸三条店というそれなり以上の大型店では、お客の入りが〝まばら〟という感じだった。

 

結果的に先日本店で探していた2冊の新書があったので、まずはこれらの中味を確かめて購入し、さらに書棚を覗いていた。この時間が、私にはとても楽しい時間なのだ。

 

そうすると良くしたもので、こちらに背中を向けながら、微笑んでいるように思えた文庫本があった。すぐ手に取ってパラパラとめくり、これはもう買うしかないと判断した。

 

ということで、今日は結果的に3冊の本を買い込んでしまった。いま机の片隅には、読みかけの本が10冊ほども積み上がっている。

 

今日、最後に微笑んでくれたのは、歴史小説家の葉室麟さんが書かれた「古都再見」(新潮文庫)という随筆集である。

 

 

 

葉室さんは私より少し年下だが、50歳を過ぎて作家デビューをされ、瞬く間に直木賞作家になられた。だけど4年前に幽冥境を分けられた。まだこれから、と言える年齢だった。

 

その方が老いを感じつつも、「幕が下りる前に見るべきものは、やはり見ておきたい」と2015年に京都に仕事場を移され、それからの出来事を書き綴られた随筆集である。

 

歴史小説家が京都に移住までされて、「見るべきもの」を見ようとされながら、突然に他界された。なにかそこには、眼に見えない糸のようなものがあったのだと思う。

 

これは、読まないわけにはいかない。だから、背中で私に微笑みかけていたのだな、きっと。これでまた一つ、私の愛読書が増えたと思う。