観光地でごみのポイ捨てが続く | がいちのぶろぐ

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〝このコロナ禍の状況で、何も好んで観光客の話など〟と思わないでもなかった。今日配信されてきたダイヤモンド・オンライン誌の記事である。

 

ノンフィクション・ライターの窪田順正氏が書かれた、「『マナーの悪い外国人』が消えた観光地で、ゴミのポイ捨て被害が続く真の理由」と題された記事である。

 

しかしこの記事が示している、ごみ問題に関する内容は奥が深くて、しかも〝コロナ禍だから〟という面も、合わせて指摘されている内容だった。

 

窪田氏は「コロナ禍の中でも訪れてくれる観光客はありがたい」存在だが、「ゴミを撒き散らす者も増えている」ので、「周辺住民や自治体からクレームが殺到」していると言われる。

 

現在のコロナ禍の下では、極端に言えば「ゴミからコロナウィルスが感染するのではという懸念」から、「観光業が『災い』を地域に呼び込む鼻つまみ者扱い」になっているという。

 

問題の「観光地」の「ゴミのポイ捨て」だが、窪田氏によれば「コロナ前の日本社会では、観光地でのゴミのポイ捨ては『マナーの悪い外国人観光客』の仕業」とされていた。

 

しかしコロナ禍で外国人観光客が消滅してしまった現在も、「観光地では相変わらずゴミのポイ捨てが続いている」と、窪田氏は指摘される。私も、それは事実だろうと思う。

 

 

(がらんとした昨秋の「竹林の小径」/京都・嵐山)

 

「その問題には、かなりの割合で『マナーの悪い日本人観光客』が関与している可能性がある」と、窪田氏は主張される。

 

しかも「ゴミのポイ捨てのような社会の課題は、『マナー』という精神論では解決できない」というのが窪田氏の意見である。私もこの意見に賛成したい。

 

何よりも、「自国民に対してすら、何十年たってもポイ捨てをやめさせられていない」現状なのに、「観光で短期間しか日本にいない人たちを教育することなど不可能」だと言われる。

 

〝お説ごもっとも〟と言いたくなる。〝付け焼刃〟的な精神論の〝教育〟で解決できるなら、こんな問題はとっくの昔に解決しているだろう。

 

いやもっと言うなら、日本の〝ごみ問題の根底〟のところを、徹底的に見直すことなしには、ごみのポイ捨て問題は解決策が求められないと、私には思われる。

 

それは、〝ごみ問題はリサイクルで決着が着く〟という『幻想』である。リサイクルは、再生原料や再使用材料からできた製品が、普通に流通することで最終的に完結する。

 

この最後の段階が、なかなか上手く機能しないところがネックとなっている。再生原料は質が落ちるとか、価格面で新品の方がむしろ安い、と言った声が常に存在する。

 

それでも再生原・材料に大きなニーズがある、という社会になってこそ、リサイクル型社会と言える。しかも再生製品化のための技術は、世界的にも日本は随分と先進国である。

 

という日本の現状も踏まえて、窪田氏の記事を読み進めていった。窪田氏は「ごみのポイ捨て」について、「罰金を科すなどの厳罰化」には否定的である。

 

もし厳罰化が「実現すればかなりの日本人観光客も厳罰の対象となるだろう。当然、声を荒らげてゴネるような輩も出てくる」が、これに私たちはどう対処できるかという問題だ。

 

こんなケースで、警察を呼んで解決することが現実の問題としてできるか。それとも〝キレる〟輩がナイフでも持ち出したなら、私たちに対応する術はあるのか。

 

一方で、「日本の観光地は、諸外国と比べて異常なほどゴミ箱が少ない」というのも事実だ。これはオウム真理教の〝地下鉄サリン事件〟以来、「危険物を入れられないよう、街中のゴミ箱はできる限り減らす」という方針になっている。

 

 

(嵯峨野の路傍に置かれたごみ箱)

 

さらに日本の文化財は、「古い木造建築がたくさんあるので、火気は厳禁」である。「中に吸い殻でも入れられたら」と考えれば、それこそ管理する方々は寒気がしてくるだろう。

 

ということで、窪田氏はこうした「ごみのポイ捨て」防止策として、「ごみのデポジット」が良いのではないかと提案をしておられた。

 

ビン・缶といった散乱ごみになりやすい製品を、一定の〝預り金〟を受け取って販売し、空きビン・空缶と引き換えに預かり金を返す、というのが元々のデポジットの考え方だ。

 

それをビン・缶に限らず、〝歩き食い〟に使われる〝串・箸・スプーン・プラ容器・コップ〟などに拡張し、回収拠点に持参すれば何らかのインセンティブを与えるという提案だ。

 

一番わかりやすいインセンティブは、〝預り金の返却〟になる。それ以外にも、回収拠点で無料飲料の提供があったり、回収拠点をインスタ映えポイントにして、SNSに掲載してくれればサービスが受けられたりすることも有り得る。

 

窪田氏はこうした事例に、「小江戸」として有名な埼玉県川越市の「川越一番商店街」で行われた、商店で〝回収用の紙袋〟も一緒に渡すデポジット方式の実践例を上げておられた。

 

確かにこうした取り組みは、観光客側からの自発的な参加であり、最初から無視してしまうような人たちには〝刺さらない話〟かもしれない。

 

しかし関西では、数年前から京都・祇園祭の宵山で『祇園祭ごみゼロ大作戦』と銘打って、露店での使い捨て容器の使用を止めて、使い回し可能な容器を利用し、それを回収する活動が始まっている。

 

 

(祇園祭宵山の「ごみゼロ大作戦」の回収拠点)

 

しかも数年を経ずして、この動きが大阪・天神祭の宵宮での『天神祭ごみゼロ大作戦』へと拡大している。いずれも私の若い知人が中心になって、運動を盛り上げてくれている。

 

川越市での実践も、京都や大阪での活動にしても、ほんのちょっとした工夫で、人が本来持っている〝善意〟のスイッチを押すことになり、ひいては資源保護対策にもなっている。

 

これは今っぽく言えば、ノーベル経済学賞を受賞した「行動経済学」の考え方にある〝ナッジ効果〟そのものである。

 

〝ナッジ〟とは〝肘でそっと突く〟といった意味の単語である。人間の心理として気恥ずかしさもあり、積極的に何かをしにくいこともある。そんな時、誰かに肘で軽く押されると踏ん切りがついて行動を起こしてしまう。

 

だからこそ、窪田氏も提起しておられるように、「社会の課題を解決するには、社会の体制を変えなくてはいけない」けれど、運動部的な「根性論を掲げるだけではそろそろ限界」だと思う。

 

だからまず具体的な〝仕組み〟を準備し、その仕組みが生きるように、誰にとってもわかりやすく、ちょっとやってみたくなる(ナッジ効果が期待できる)ような、新規性のある〝仕掛け〟を創り出すことが必要だ。