清和源氏発祥の地「六孫王神社」へお花見に | がいちのぶろぐ

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今日は午前中に、京都の市街地としては最も南にある「東寺(教王護国寺)」から、北西すぐの場所に当たる「六孫王神社」までお花見に出かけていた。

 

 

 

六孫王神社は、地理的に言えば「八条壬生」という交差点に面している。東西に100m、南北に50mほどの、さして大きな神社ではない。

 

 

 

我が家から京都駅八条口まで行き、そこから西へ向かって歩くこと15分余りで、「八条壬生」交差点に着いた。市バスに乗れば、「京都駅八条口」バス停からものの45分で着く。

 

そんな「六孫王神社」だけど、入口に当たる鳥居のところから本殿に至るまで、ソメイヨシノの古木を始め、各種の桜がまさに今を盛りと咲き乱れていると言う状況だった。

 

 

 

そもそも「六孫王」とは、「六孫王大神」を主祭神としてお祀りしているところから来ている。では六孫王とは誰なのかということになる。

 

 

 

本殿の脇に掲げられていた説明書によれば、「源朝臣経基(みなもとのあそん・つねもと)」という方だと書かれていた。この経基王は、清和天皇の第六皇子・貞純親王の御子で、天皇の第六子の孫にあたるから「六孫王」なのだそうだ。

 

 

鎮守府将軍として乱を平定した功績で、天皇から「源」姓を賜り、武門の棟梁になったという。すなわち「清和源氏」と呼ばれる一門は、この「六孫王・源経基」から発している。

 

「ハイ?清和源氏?」そうなんです!清和源氏とは、この「源経基」から数えて8代目の子孫の時、あの源頼朝・義経兄弟にたどり着く。まさにその〝源流〟となった人物なのだ。

 

 

 

この方の死後に、息子の源満仲という方が〝自身の邸宅があったこの地に葬ってほしい〟という経基の願いを受け、963年ここに社殿を設けたのが六孫王神社の創始とされている。

 

 

 

だから源頼朝は、8200年ほど後の子孫ということになる。今から200年前と言えば1820年頃だから、江戸時代のまあまあ末期に当たる。現在なら、その頃のご先祖と言われても、となるだろう。

 

だが、源経基は平安時代の中期の人である。しかも歌人としても有名だったらしい。拾遺和歌集に何首も掲載されているらしい。

 

 

 

だから、後世の大勢の源家の人たちにしてみれば、〝この方こそが我らがご先祖さま〟だったと思う。現在を生きている、私のような〝どこの馬の骨〟ではない人たちなのだから。

 

という神社に、桜がまさに咲き誇っている状態だった。先ほども言ったように、今ではそれほど広い神社ではない。だけど境内全体で、所狭しという感じに桜が自己主張している。

 

 

 

本殿の脇に掲げられた由緒書きでは、この神社も応仁の乱で炎上していたり、足利将軍家の時代には、源頼朝系列の鎌倉幕府を倒した室町幕府だから、この神社は辛い立場だったようだ。

 

 

 

だから德川家の江戸時代になって、18世紀の初めに何とか再興された、というような説明になっていた。

 

 

家系図を見ても、平安時代の末期には源氏と平家が争っている時代もあるし、そのときは源氏が勝ったから良かったけれど、敗れた平家は以後ボコボコだったし。タイヘンだなあ。

 

そんなことで、今日はせいぜい30分ほども六孫王神社にいて、帰路は「六孫王神社前」バス停から京都駅前までバスに乗り、そこで乗り換えて我が家に帰宅した。

 

 

 

 

お昼前に我が家の近くのバス停で下車した後、今度は鴨川河川公園の桜を見ることになった。思わず、〝遠くへ行かなくても〟という贅沢なひと言が口から漏れ出てしまった。