五輪・パラを止めて、コロナ対応だけの戦略に絞るべき | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

先週の週末は早々とお花見の時期になって、桜の名所として知られる場所はどこも人出が多かったようだ。新聞記事では、京都も嵐山などはすごい人出だったらしい。

 

 

(今日の鴨川河川公園の満開の桜)

 

この影響で、4月の上旬にはコロナの陽性者の人数が日本中できっと大幅な増加になり、世間の意見も、政府の〝無策〟に対する批判や怒りで溢れ返ることだろう。

 

東京五輪の〝聖火リレー〟も、何だかんだ言われながらもとりあえずランナーは走っているが、本当に五輪・パラリンピックができるかどうかは、まだまだ不透明な状態だ。

 

こうした状態は、「とにかく五輪・パラリンピックの開催ありき」という政府の姿勢が前提になっている。聖火リレーを行っていることは、まさに〝五輪ムード〟の盛り上げだ。

 

花見客の増加だって聖火リレーだって、「日本は、コロナ禍から平常に復していますよ」というメッセージを、世界に向けて発信したいという意思の表れだと思う。

 

(小さなお寺も満開の桜が顔を覗かせて/千本今出川)

 

だからこうした一連の出来事は、7月下旬には東京五輪・パラリンピックの開催が十分可能ですよ、という強いメッセージなのだ。だが本当にそれでいいのだろうか。

 

テレビの情報番組や新聞の記事では、五輪・パラリンピック開催に対する国民の意見は反対が7080%を占めると言いながら、連日、聖火リレーの様子を紹介していたりする。

 

世間の多くの人は、こうしたマスコミの態度に対して、〝貴社は、開催・中止のどちらに賛成するのか〟と問いたいだろう。いやすでに、マスコミを見捨てているかも知れない。

 

テレビ局は、電波の割り当て権限を政府が持っている。新聞だって上層部は政権のトップと定期的に会合を持つことが常識になっている。

 

そんな状況であるにもかかわらず、マスコミ各社が〝自社の意見〟として、「政府の『五輪開催』という意見に反対」などと、簡単に表明できるわけがないのだろう。

 

世間の人々も、今さら「新聞は社会の木鐸」などとは思っていない。それにしても現状のマスコミの態度は、あまりにも〝無定見〟極まりない姿勢が目につくと思う。

 

そこまで政府ににらまれるのが怖いのなら、「マスコミ」などという看板をさっさと下ろすべきだ。せめてきちんと情報を提供するならともかく、それは〝文春任せ〟なのだろうか。

 

国会の予算委員会では、質問に立った野党議員と、参考人として答弁する官僚との間で、〝珍妙奇天烈〟な押し問答が繰り返されていた。これも何とも〝締まらない話〟だと思う。

 

こんな状況を見せられて、誰もがもはや〝嫌気(いやき)〟をお腹いっぱいに溜め込んだ状態になっている。ゲップなどはとっくに通り越して、今では吐き気を催しつつある。

 

この閉塞した状況を打開できる方策があるとすれば、政府が「東京五輪・パラリンピック返上」と宣言し、「コロナ禍収束のため、与野党が結束して挙国一致内閣を」と言う以外ない。

 

その後は思い切った大連立内閣を模索し、その構想に見通しが立てば、現在の菅内閣は総辞職をして新たな大連立内閣に席を譲る。

 

新しくできた大連立内閣の手によって、これから向こう3年間だけの日本の針路に関する戦略を策定する。その戦略を徹底して実行することだけが、この大連立内閣の使命となる。

 

その上で実行した戦略の結果を問わず、3年後にはいったん連立を解消し、あらためて総選挙を行い、国民に次の進路に関する判断を委ねる。

 

この「非常時対応」に特化した内閣を想定しない限り、与野党がせめぎ合う国会では、コロナ禍と東京五輪・パラリンピック開催という、矛盾に満ちた難局を乗り切ることは不可能だ。

 

東京五輪・パラリンピックの開催をあきらめる前提として、大連立内閣によるコロナ対応という大義名分が必要になる。だから、こうした時限的な大連立内閣が生きると思う。

 

4月の補欠選挙で与党が無惨な敗れ方をしても、それだけでは現在の内閣が総辞職する理由にはならない。だけど、コロナの陽性者数が爆発的に増えれば〝菅下ろし〟につながる。

 

そんな場合に、大連立内閣によって一気に課題を克服する、という荒療治の戦略を採用することで、この国の新しい進路が見えるような気がする。