梅棹忠夫先生の「京都の精神」をじっくりと読んだ | がいちのぶろぐ

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昨日は、私が「京都・観光文化検定(京都検定)」の1級を受験しようかと思っている、という話題について書いた。

 

だからというわけでもないが、今日は朝から梅棹忠夫先生の「京都の精神」(角川ソフィア文庫、平成17(2005)年)という、講演録中心の本を引っ張り出して読み返していた。

 

 

 

以前に読んだときに、〝ここぞ〟と思う部分には赤ペンで囲うなど〝マーク〟を付けていた。マークを入れた箇所とその前後の部分を、あらためてじっくり精読をした。

 

梅棹忠夫という方はやはり「知の巨人」であり、凄い洞察力を持った方だと思う。この本には1966年に行われた講演から、1985年に行われた講演まで7本が収録されている。

 

元々はこれらの講演録を中心に、1987年に角川選書として世に送り出された書物である。私は、それが2005年に文庫版として出されたものを読んだ、ということになる。

 

1987年版の「前説」部分で、梅棹先生は「京都のひとの心のなかには、ぬきがたい中華思想がひそんでいる」と言っておられる。「自己の文化を基準にして世界を考えるという発想」だと。

 

その「中華思想はけっして排他的ではない。この文化にしたがうものはすべて受け入れる」とも。だから「その意味において京都中華思想は、一つのイデオロギーである」という前提の下にこの本は成り立っている。

 

今から見れば半世紀以上前になる1966年に、「京都の未来像」というタイトルで行われた講演で、梅棹先生はすでに次のような内容の話をされていた。

 

「今日ではあたらしい方向として、文化重視のうごきがでてまいりました。将来は知識の時代、情報の時代、あるいは文化の時代になるといわれております。情報や文化が産業として成立し、経済のおおきな一分野となることがよそくされているのです。」

 

いかがだろうか。今この時点でこうした話をしても特に不思議でもなければ、古臭い内容だということでもない。それを半世紀以上も前にあっさりと言い切っておられた。

 

次に50年前の1970年に、京都市文化観光局が行った「観光事業経営者講座」での講演で、「京都と観光産業」について以下のように話しておられる。

 

「京都の将来はどうなるのか(中略)、けっきょく文化だと思う。観光ということも(中略)、文化全体のなかでかんがえてゆかなければならない。」

 

「観光ではくえないけれども、文化ならくえる。(中略)第一級の都市になればなるほど、文化あるいは情報の重要性がでてくる。文化ないしは情報のしめる産業的重要性がおおきくなってくる。」

 

「いったい観光産業はなにを売っているのか。(中略)ひろい意味で、わたしはやはり情報を売っているのだとおもいます。(中略)買うほうの立場、お客の立場からいえば、これは『体験情報』を買っているのです。」

 

「観光産業というものは、基本的に体験産業だとかんがえます。(中略)体験を中心にする総合産業になっている。(中略)どういう体験を売るか。これはかんたんにいうと、非日常的体験を売る。」

 

長い引用になってしまったけれど、これを読んでどういう感想を持たれただろうか。この講演は、半世紀前の1970年に行われていることをもう一度思い出してほしい。

 

「観光産業全体に、演出がいるようになってきている。(中略)京都全体のイメージをどういうぐあいにつくりあげてゆくか。(中略)演出の上手、下手によって、観光事業というものはおおきくかわります。」

 

今この講演を聞いたとしても、〝そうだ〟と手を打って賛同したくなる意見だと思う。それをすでに50年も前に、観光産業の経営者に向かって発信しておられたのだ。

 

この「京都の精神」という本に納められている、梅棹先生のこれ以降の、1980年代の講演については、また機会があれば紹介したいと思う。

 

ただ、ここまで書いてきた半世紀以上も前の2つの講演を読んだだけでも、梅棹忠夫という「知の巨人」の凄さを感じてもらえたと思う。

 

今あらためて読み返してみて、梅棹先生のいわれる通りだと思うし、その内容をもっときちんと吟味して行くのが、あとに続く私たちに課せられた仕事だと思う。

 

時にはこうして振り返る機会を持つことも、とても大事なことだと心底から思い至ることとなった。

 

この「京都の精神」という本も随分前に買って、そのときに赤ペンのマークを入れながら読んでいる。私自身もそれなり以上に丁寧に読んでいたと思う。

 

それでも今日読み返してみると、なるほどと思ってしまう内容だった。それが50年前に発信されていたことの方が驚きである。

 

きっとこの講演を聞いた方々は、梅棹先生の考えがあまりにも先へ行き過ぎていて、そのときには着いて行けなかったのではないか、と想像してしまった。