いよいよ年の瀬となってきた | がいちのぶろぐ

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異常な年となったこの2020年も、いよいよあと3日で終わろうとしている。しかし年が改まろうと、世界中でコロナ禍が収まる気配などは全く見られない。

 

パンデミック(世界的大流行)の状態であることは間違いないが、それがいつかは収まるという気配すら考えられないという、たいへん厄介な状況だ。

 

人類はこれまで何度も、経験したことがない疫病の大流行によって、大量の死者が出るという現実と直面してきた。ペストやコレラの大流行などは、その典型例と言えるだろう。

 

今回の新型コロナウィルスも、そうした疫病の一つとして人類史に長く留められることになるだろう。いや、むしろこれからも、こうした疫病の流行は繰り返すことだろう。

 

医学や疫学の進歩というけれど、それは既知の病気の症状への対処法であって、未知なる病気に対しては、それと出会うまで医学や疫学は対処法を持っていない。

 

ただ未知の病気であっても、過去の類似例から推測して対処法を探っていける可能性という点で、21世紀になってからは、従来と比べものにならないほどの発達を遂げたと言える。

 

特に、情報通信革命によって情報の膨大な蓄積と検索が可能になり、さらにAIを利用することによって、考えられる対処法の中から有効なものを選択するといったことも、迅速に行えるようになった。

 

こうした状況でありながらも、このコロナ禍では人々に対して3密を避けるように注意を喚起し、きわめて原始的な〝マスク着用〟と〝うがい・手洗いのすすめ〟が有効とされている。

 

これもまた、考えてみれば面白い現象だ。特にマスク着用に抵抗感が少ない東アジア諸国の人々と、抵抗感が高い欧米諸国の人たちとの相違というのも不思議なものだ。

 

というようなことはとりあえず横に置いて、今日の午前中は、少し離れた大型スーパーまでバスに乗って細々としたものの買い出しに出掛けていた。

 

こうしたスーパーというかショッピングモールには、今では100円ショップも入居しているし、近くにはドラッグストアなどもあるから、その周囲で大概の用事が済んでしまう。

 

〝だからこそのスーパーだ〟と言われれば、まったくその通りなんだけど、やはり商店街のそれぞれのお店をウロウロと回るより効率的であることは間違いない。

 

 

 

ということで、買い物から家に帰れば帰ったで、〝ごまめ(田作り)〟はでき上がっていたし、〝数の子〟も塩抜きが始まっていた。

 

 

 

今度の正月3が日は、千葉都民の娘家族はもちろん、大阪の息子の家族も我が家には来ない予定だ。だから〝おせち〟は徹底的な手抜きということで、家人とは了解できている。

 

それでも、〝ごまめ・数の子・叩き牛蒡〟は必要だし、黒豆はもう我が家で煮ることは止めて、ビン詰めの品を購入した。後は、蒲鉾などの〝練り物〟を少々といったところだ。

 

老夫婦だけだから、もはや焼魚や根菜類の煮物などは、特に正月用ということで用意しなくてもいいだろうとなった。食品スーパーなども、2日か3日には営業を始めるから。

 

孫たちが大好物のローストビーフや、いつも食べたがる餃子なども、今年に限っては用意をしなくても良い。いや何よりも、お餅が少しだけで済むのだ。

 

昨年の年末は、豆餅で有名な出町の「ふたば餅」へ小餅を買いに出掛けて、1時間も行列に並んだし、ふたば餅のお隣りの精肉店「岡田商会」へもブロック肉を買いに出掛けた。

 

 

(昨年末の「ふたば餅」の超過密の行列)

 

それが、今年はご近所の奥さん連中が集まって、昨日〝餅つき機〟による小餅作りが行われた。昨年はなぜか取り止めになっていたのだが、今年は復活したらしい。

 

今日、29日に作るお餅は〝苦餅〟と言って、縁起が悪いとされている。だから28日の昨日に小餅作りが行われた。ということで、今年はふたば餅の大行列は逃れることができた。

 

私が日ごろずっと過ごしている、パソコンが置かれた4畳ほどの洋間も、先ほど丁寧に掃除をした。そういえば、昼食後すぐに散髪にも出掛けた。首筋が少しスースーしている。

 

 

 

キッチンの上の方に作られている神棚も、氏神さんと平安神宮のお札の張り替えが済んでいたし、玄関には正月らしい飾り付けも始められている。

 

 

 

それにしても元日は大寒波だということだし、初詣は密を避けて、できれば日にちをずらして、といった要請もされている。

 

 

 

そう言えば、NHKの「行く年来る年」でよく中継される知恩院の大釣鐘の「除夜の鐘」も、今年は周辺への立ち入りが禁止だそうだ。僧侶だけで「除夜の鐘」を撞くという。

 

 

(知恩院の大釣鐘のすぐ近くに我が家の菩提寺がある)

 

何もかもが異常なままで過ぎて行く。この疫病のために、これまでの日常がすごく遠いものに思えている。この状況が、新しい日常になるのだろうか。

 

 

(八坂神社の摂社「疫神社」に昨年春に設けられた茅の輪)

 

来年が少しでも「良い年」になってほしいと願うけれど、では「良い年」とはどんな状態を言うのかと、改めて問い直してみたくなっている。

 

新たな日常が始まる年になるのか、それとも旧に復することができる年になるのか、どんな年になるのだろう。