名残りの紅葉を求めて散歩に | がいちのぶろぐ

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先週の3連休の雨と風で、今年の紅葉は急速に散り始めたような気がする。〝これはイカン〟ということで、今日は午前中に家から遠くない紅葉スポットまで見物に出掛けていた。

 

我が家の近くの「出町柳駅前」バス停から、「錦林車庫」まで10分ほどバスに乗る。錦林車庫のバス群を見ながら裏手に回り、急な坂をそれこそ〝ハァ、ハァ〟と息を切らせながら、真如堂・真正極楽寺を目指した。

 

 

 

とにかくこの坂はいつ来ても厳しい。坂が終わってお寺へ入る最後のところも、これまた急坂である。とにかく、ここまでに23度は息継ぎのため小休止をすることになる。歳は争えない。

 

真如堂の三重塔はいつ見ても美しい。それに本堂も随分と立派だ。今日は何やらイベントや、曼荼羅図の特別公開もあるらしく、いつもよりは人が多かった。と言っても、高が知れてはいるのだが。

 

 

 

さて、紅葉ポイントはこの立派な本堂の裏手になる。そこで目に止まったのが、本堂の裏面にはめられたガラス戸に映り込んだ紅葉だった。

 

 

 

〝これは珍しい〟ということで、それぞれの方が撮影しておられた。この本堂の裏手のモミジ群は、真っ赤な紅葉というよりも、すでに散り敷き始めていてそれがむしろいい雰囲気になっていた。

 

 

 

私もスマホで何枚か写真を撮ったけれど、あちらこちらで上等そうなデジタル一眼カメラを構えている、私と同世代の男性の姿が目に付いた。最近は、こうしたカメラ好きの方々が増えている。

 

 

 

 

真如堂のすぐ南には、黒谷・金戒光明寺が隣接しているので、真如堂を出てそちらへ向かうことにした。金戒光明寺側に入るとすぐに〝会津藩士〟の慰霊墓碑がある。

 

この金戒光明寺は徳川家とゆかりのお寺で、境内には数年前に大河ドラマになった「江の方」、2代将軍徳川秀忠の正室の供養塔などもあるくらいだ。だから幕末には、会津藩・松平容保公が〝京都守護職〟の本陣をこの寺に置いた。

 

 

 

真如堂から会津藩士の慰霊墓碑を横に見てほんの少し行くと、今度は金戒光明寺の三重塔に出会う。こちらもなかなかに立派な塔が建っている。

 

 

 

三重塔の前からは、京都の町がきれいに見えている。三重塔からかなり急な石段を下って行くと、短い石の太鼓橋が小池に架けられている。極楽橋となっていた。

 

 

 

その脇にあるお堂は「熊谷堂」と言うそうだ。平安末期から鎌倉時代にかけて源氏の武将として名を馳せた熊谷直実が、この場所で法然上人と会って出家をした、と説明板に書いてあった。

 

 

 

また極楽橋という太鼓橋は、春日局がお江の方の墓参りのために寄進したと書かれていた。いや何とも、日本史の教科書に名前が出て来るような人たちばかりではないか。

 

 

 

昼食までに家に帰り着くには、そろそろいい時間になって来たので、金戒光明寺の本堂の方には行かず、すぐに山門へ向かう。

 

 

 

江戸時代には、この山門の楼上から東海道を行き来する人の姿が見通せたそうだ。だから幕末には、会津藩士がこの山門の上から行き交う人の見張りをしていたらしい。

 

 

 

山門の後ろにある、大きな手水鉢型の石の脇のモミジがきれいに色付いていて、こちらも写真に収めている人が多かった。

 

 

 

山門から急な石段を下って、町中へ向かう道へ行く。この道を真っ直ぐ行くと、修験道の総本家の「聖護院門跡」がある。

 

 

 

聖護院の門を過ぎると、「聖護院八ッ橋」の店と「西尾八ッ橋」の店がほぼ向かい合っている。〝本家〟と〝本舗〟の老舗同士が向かい合って競っている、と言ったら怒られるかな。

 

 

 

 

二つの八ッ橋の店を過ぎると京大病院の前に出る。この前が「熊野神社」バス停になる。ここからまたバスに乗って、10分ほどで「出町柳駅前」バス停まで戻ってきた。

 

 

(熊野神社バス停前の「からふねや」のショーウィンドウ)

 

今日の散歩は時間にして2時間ほど、歩いた距離にして3kmほどだが、最初に急な上り坂を上ったからけっこう足が疲れていた。それにしても、紅葉もこれが今年の見納めということだろう。

 

明後日からは、早いもので師走になる。新型ウィルスで始まり、コロナ禍で1年が暮れようとしている。今の状況では、来年も見通しは明るくなさそうだ。さても困った時代になったものだ。