「町歩き」はデザインによって似て非なることも | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

昨日は、「対比で考える」ことによって新しいアイディアが生まれやすくなる、という記事に触発され、こうした考えに従って、私が直面している課題を整理していこうと書いた。

 

考えを整理していた時、それまでは2通りの考え方を混在させたまま議論を進めていたことに気付き、これらを別のものと考えて、違いを対比させて整理したところ、内容が随分スッキリと整理できた。

 

やはり一度立ち止まって見直しを行い、物事を「対比」という側面から捉えてみるという進め方は、かなり有効な整理方法だということを改めて認識させられた。

 

そう思っていたら、昨日の小柴大輔氏の記事の続編が、今日配信のダイヤモンド・オンライン誌に掲載されていた。

 

「スタディサプリ神講師が教える『フィクションを知的に楽しむ2つの視点』」というタイトルの記事だったので、これはと思って早速に読んでみた。

 

今日は、「正反対の対比」と「似ているけれど異なっているものの対比」ということを、有名な漫画を事例として挙げた上で説明されていた。

 

「正反対の対比」という場合の事例では、まず手塚治虫氏の「鉄腕アトム」が代表例として挙げられていた。

 

 

 

〝アトム少年〟は「ロボット」であり、人間とは対極にある存在だからこそ「対比」され得る存在となる。つまり「人間らしいロボット」の目を通して〝人間世界〟を見ることになる。

 

そこからヒューマニズムとは、人間とは何だろう、というところへ視点を持って行くことが可能になる、ということだった。

 

一方で「似ているが異なっている対比」という場合の代表例は、石ノ森章太郎氏の「サイボーグ009」が挙げられていた。

 

彼らは「サイボーグ=改造人間」であり「ロボット」ではない。だけど「サイボーグだから」私たちが普通に想像する人間でもない、という「似ているが異なる」存在ということになる。

 

この「サイボーグ」の立場から人間を見れば、人間とはどういう存在なのかいう、根源の問題が浮かび上がって来る、というのがこの場合の考え方だった。

 

しかも石ノ森氏は、高校生のころに手塚氏のアシスタントのような仕事もされていたし、あの伝説の「トキワ荘」で一緒に暮らしていた時期もある、ということだった。

 

 

 

だから漫画を描くというよりも、物事を考えるという視点において、手塚氏の考えに触れることもあり、そこから得たものもあっただろうということだった。

 

この小柴氏の解説も面白かった。人が人に触発されることは、関係性が濃くなればなるほど、当然起こって来る。だから、こうした視点の持ち方も有り得ることだろう。

 

記事ではさらに、「正反対の対比」の事例として映画「シン・ゴジラ」を取り上げ、「架空の破壊神ゴジラを一方に配置したからこそかえってリアルに」日本の政治の問題点が見えてきた、とも書かれていた。

 

このように、「何と何を対置させているのかを考えると見えてくるもの」があるということだった。

 

私が考えているケースの場合は、「似ているけれど異なっている」という場合に該当していたと思う。これを似ている点と、異なっている点に分けることから再整理を始めて行った。

 

その結果、何が共通する点かということと、どこが異なっているから取り扱いを変えないといけない点か、ということに問題点が絞られてきた。

 

これは、この間何度も書いてきた同志社大学院のオープン講座で、私が参加している「半径3キロの旅」の中味を詰めて行くために考えていたのだが。

 

 

 

その結果「半径3キロの旅」というタイトルで、「あなたが主役の旅を作る」というテーマを考えた場合、「ガイドが案内する町歩き」と「参加者が自分で発見する町歩き」という考え方が、メンバー間で混在したままになっていたことがわかってきた。

 

「ガイドが案内する町歩き」であっても、もちろんそこで参加者が自分なりに何か新たなことを発見することだって起り得る。

 

その反面「参加者が自分で発見する町歩き」であっても、何の予備知識もなしにやみくもに歩き回ったとしても、何も「発見できないまま」に終わるかもしれない。

 

だから最低限の予備知識というか、参加者が参考にできる資料は必要になるだろうし、歩く地域の広がりも、主催者側がある程度コントロールする必要が出て来るだろう。

 

だからこの2通りの「旅の作り方」に関する考え方は、共通点も多いけれど異なっているところもある、ということになる。

 

つまり〝人間とサイボーグ〟の間にある相違ということになる。どちらが良いということではない。どちらにも、参加者にとって良い点と不足する点があると言っても良い。

 

ただしこれを一緒にして考えれば、それぞれの相違点が議論のすれ違いを生んでしまうことになる。だから、そこをもう一度整理し直したというわけだ。

 

その結果、参加者の年齢層や旅に求めるものなどによって、どちらの方法がとっつきやすく、また適応しやすいかが変わるような気がしてきた。

 

比較的高齢で、主としてティーチングによって知識の伝授を求める人には、「ガイドが案内する町歩き」が向いているだろう。

 

反対に年齢層が若く、自分の探究心を磨きたい人にとっては、「自分が発見する町歩き」の方が性格的に合っているかも知れない。この場合はコーチングとして、寄り添って知識をサポートするやり方が必要になる。

 

だから、こうした相違点があることを踏まえて、「半径3キロの旅」をデザインする必要があることになる。

 

特に「ガイドが案内する町歩き」の場合、ガイドに求められる能力というか、負担は随分と大きいものになる。だから結論として、それに耐え得る人材が必要だということにもなる。

 

こうしたことを、次回に集まった際にメンバーに伝えて、それを下敷きとして議論を進めてもらおうと思うに至った。