「鬼滅の刃」のシール欲しさにお菓子はポイ捨て | がいちのぶろぐ

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「鬼滅の刃」のシールは欲しいけれど、〝おまけ〟としてシールが着いているお菓子の方は食べないで捨ててしまう。この話題がネットのニュースを賑わせている。

 

もちろんこの話題は、「もったいないことをする」とネット上では非難の声に満ちている。だけどこうしたことは、〝ビックリマンチョコ〟の時にも起こった現象である。

 

さらに〝エッグチョコ〟に至っては、「海洋堂」が制作しチョコに入れられていたフィギュアを目当てに、卸売店に出掛けてダンボール箱単位で〝大人買い〟する人まで現れた。

 

こんなことは、はるか大昔の私が子どもの時代にもあった。子どものころ、カバヤ・キャラメルに入っていたシールのポイントを集めると、カバヤ文庫という小説がもらえたから、私もせっせとカバヤ・キャラメルを買っていた。

 

では、今とはどんなところが違っているだろう。私が子どもの頃は、〝甘いお菓子〟そのものが貴重品だったし、お小遣いもタップリもらえるはずはなかった。だから、買ったキャラメルも必ず食べた。

 

つまり、ビックリマンチョコを食べずにシールを集めることも、エッグチョコの〝大人買い〟だって「お金がある」からできることだ。

 

その上、現在はコンビニでもどこでも、食べたければお菓子は〝腐るほど〟売っているからできることだ。

 

単純に言えば、シールだけを高く販売したって買う人間は買う。でもそれではお菓子メーカーは必要がなくなる。やはりお菓子を売ってナンボ、なのだから。

 

お菓子を捨てても惜しくないと思うのは、そうするだけのお金を持っているということだ。それに、また別に食べたいお菓子があれば、それも買うことができるくらいのお金は。

 

この話題のように、お菓子を買ってシールだけを残し、肝心のお菓子は捨てるような子どもに育てたのは親たちだ。さらにそんな親たちを育てたのは、つまり私たち世代なのだ。

 

エッグチョコの箱買い騒動があった時には、こんな大人を育てたのは私たちの世代だと思った。そして今回、こんな孫世代を育てたのは、私たち「爺・婆世代」なのだと思う。

 

自分たちが子どものころに叶えられなかった「夢」を叶えさせたいと思うから、子ども世代を甘やかし、そして子ども世代が親を見習って、孫世代を甘やかしてしまったのか。

 

「鬼滅の刃」だって、私は原作もテレビアニメも、大ヒット中の映画も見たことはないけれど、それがブームになった以上、マーケティングの常道としてコラボ企画は出て来る。

 

 

(多くのメーカー・商品が「鬼滅の刃」とコラボしている)

 

だからお菓子メーカーにしてみたら、高い著作権料を支払った以上、この現象の是非はともかくとして、結果的には〝してやったり〟だと思っているに違いない。

 

本当に非難すべきなのは、こうしたコラボ企画をする〝マーケティング戦略〟なのかもしれない。でもそれは、企業活動の自由であり選択である。

 

だからこの現象において最も非難に値するのは、こんな現象を招くコラボ企画を企業内で認めた〝大人たち〟を育て上げ、今や高齢になってしまった私たち世代ではないだろうか。

 

お菓子を捨てる子どもや若者を非難しても、悪いことだとは思っていない以上、その行為をいくら非難されても痛くも痒くもない。

 

このニュースを見て一番胸に刺さっているのは、きっと私たち「爺・婆世代」だと思う。

 

何とか子どもたちには不自由な思いをさせたくない、大学くらいは出してやりたいと思って、一生懸命に働いて子育てをしてきた私たち世代が、育て方を間違えてしまったのだから。

 

今では家庭教育というか、子どもの〝しつけ〟まで学校教育に押しつける親も、少なからずいると聞く。それもこれも「爺・婆世代」が子どもの育て方を間違っていた結果だろう。

 

辛いけれど、そして今さら取り返すことはできないけれど、この「鬼滅の刃」とコラボした〝お菓子ポイ捨て〟という話題を見聞きして、私は自己批判的な総括をせざるを得ないと感じる。

 

〝子育ての難しさ〟という言葉では語りきれないけれど、「豊かさとは〝有り余る〟ほどに商品が存在すること」だと、誰かが著作の中で言っていた記憶がある。

 

少なくともそんな時代が一度は実現できたからこそ、私たちは逆説的に〝もったいない〟と感じる行為には違和感を覚える、という意識を持つようになったのかもしれない。

 

地球という限りある資源と付き合って行くためにも、新たなパラダイムが求められる時代になりつつあるのだと思いたい。