羅城門の模型を見かけたことから | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

好天に誘われ、午後からバスに乗って、さほど遠くはないショッピングモールまで、あれこれと買い物に出掛けていた。

 

ユニクロで私のダウンベストを買い、DAISOで小さなグルーガンなどを買い込み、最後はスパークリングワインの格安品を数本買い込んで帰ってきた。つまりは荷物運び係!

 

このショッピングモールは鴨川の支流・高野川沿いにある。その前のバス停付近は、高野川沿いの桜並木となっている。

 

この高野川沿いの桜並木は、鴨川の桜並木よりも密植されているため、桜が咲き誇っているときは実に見事な光景だ。

 

それが今日はちょうど桜の葉が赤く色付き、晩秋の柔らかい陽光を浴びて輝いて見える。これはこれで桜の時期とは違う風情を感じる。今日の行き帰りのバスでは、こんな紅葉を眺めていた。

 

 

 

昨夜は、ブログにも書いていたように、昔お世話になった先輩とお会いして、2時間あまり昔話に花が咲いた。それもまた楽しいひと時だった。

 

この先輩とは京都駅ビルで落ち合ったのだが、その駅ビルの前に「羅城門」の模型が展示されていた。いつもは「京都文化博物館」に展示されている模型だと思う。

 

 

 

縮尺10分の1サイズと説明書きにあったけれど、横幅が4mほどあった。ということは、実物なら横幅がほぼ40mもある巨大な門だったことになる。つまりデカい。

 

模型からすると、高さも20mほどあったということになる。以前、何かで読んだ記憶ではこの羅城門の大きさは、出雲大社の社殿や、東大寺の大仏殿と並ぶくらい大きな建物だったと記憶する。

 

この巨大構築物が東寺・西寺の五重塔を従えて、京の都の南の入口にデンと居座っていたことになる。

 

ところが、この門は台風であっさりと倒壊する。その後、一度は建てなおされたもののまた倒壊し、それ以後再建されることはなかった。

 

平安時代も中頃になれば、京の都は北寄り・東寄りが繁栄し、西寄り・南寄りの一帯は低湿地だったため早くに寂れてしまった。

 

だから都の南端にある「羅城門」も、芥川龍之介の小説「羅生門」にあるように、ある時期からは〝鬼の棲み家〟となっていたらしい。

 

当初はこの「羅城門」の楼上に安置されていた「兜跋(とばつ)毘沙門天」像も、今では東寺の所蔵になっている。そんな「羅城門」の模型が、京都駅前に展示されていた。

 

その模型の背景には、今や京都のシンボルとも思われている京都タワーがそびえているという、結果として実にシュールな光景を生み出していた。

 

これはこれで、めったに見られない光景だと思う。もし京都駅にお出かけの時には、駅前広場の東端という、比較的人がいないひっそりとした場所に展示されているので、お見逃しのないように。

 

やはり「羅城門」は、人気(ひとけ)のない場所が似合っているのかもしれない。今の世の中は目に見えないけれど、鬼より怖い〝物の怪〟が闊歩している時代だから。

 

それにしても、良い天気になった。今夜は同志社大学院のオープン講座「ソーシャルイノベーション研究プロジェクト」がある。

 

私が参加している「半径3キロの旅」チームは、先週の宿題として、自分の身近な3キロ圏にある「面白ポイント」を、3つ取り上げて持参することになっていた。

 

それで私は、「平安京の始まりを訪ねる~千本通り周辺の歴史を現代の地図と重ねる旅」、「今出川はパン屋ストリート~今出川通りに立ち並ぶパン屋を歩く」、「六歳念仏はここから始まった~光福寺」の3点を持参する。

 

 

 

 

 

これが「半径3キロ圏」に存在することも、考えてみれば中々にすごいことだと思う。特に平安京は、南端の「羅城門」に対して、北端に「平安宮」という〝皇居と国会議事堂と霞が関〟を合わせた地域があった。

 

これを85mもある大通りの「朱雀大路」が結んでいた。その北端の「平安宮」のあった辺り一帯が、現在は「千本通り商店街」になっている。

 

 

 

私はこの商店街と何かと縁ができて、今ではホームページに載せる原稿書きのお手伝いなどもしている。また〝自分の町歩き〟として、この「平安宮」の遺跡を巡ったりもした。

 

 

 

そんなことがあって、昨夜偶然に見掛けた「羅城門」は、何かつながりというか〝縁〟を感じてしまった。