「見えている」ことと「見ている」ことは違う | がいちのぶろぐ

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人は自分が〝見たい〟と思うもの以外は、〝見えて〟いてもその実は〝見て〟いないものだ、という意見は何となく納得できる。

 

昨日配信されていたダイヤモンド・オンライン誌に、神田房枝さんという方の著書の紹介を兼ねて、そのさわりを紹介する「優秀な人は『純粋によく観察する』が、凡人は『期待したもの』しか見ようとしない」という記事が掲載されていた。

 

その記事の冒頭には、「ルーティン化した仕事や生活スタイルが続いて先入観が強化されると、人間の注意力は低下し、新しい変化を見過ごしやすく」なると書かれていた。

 

たしかに、同じことを繰り返している状況が続けば、そこで偶然に起こった、ちょっとした変化などにまったく気付かないでいることは、誰しも経験があると思う。

 

特に現在は、脳の中で「検索」という行為を行うことが「私たちの日常」になっている、とも書かれていた。

 

情報が溢れ返っている状態だから、「『あらかじめ自分に必要だとわかっている情報』だけを素早く読み取るという行為」が日常化しているというのだ。

 

むしろそういう人の方が〝有能な人〟だと判断されているだろう。情報検索型人間とでも呼べばいいだろうか。

 

自分が物事を自力で考え抜くよりも、より多くの情報を検索し、それらをつなぎ合わせて素早く判断ができる人、と言っても良いだろう。

 

これでは「何の先入観も持たず、眼の前の事物・事象をありのままに理解する『観察』が入る余地」がないと神田さんは言われる。その通りだと思う。

 

「なんらかの理由で眼が見えない人のほうが鋭い知覚を有するケース」が出て来るとも。だから「視覚に依存する健常者のほうが、よく世界が見えていないという逆説的な事態」が起こり得ると言う。耳が痛い指摘だと思う。

 

こうした事態を解消するために、「その絵についての知識があったとしても、それはいったん脇に置いて、視覚的エビデンスだけで絵を解いていくようなつもりで」絵画を鑑賞することを勧めておられた。

 

絵画の細部にまで入り込んで、じっくりと鑑賞と言うか、観察をすることで見えてくるものがある。こうしたことを習慣付ければ、「見る」という行為が変わって来るということだ。

 

その結果、「ほかの人たちが見逃しているものが、見えて/観えていると感じる」ようになってくると説明されていた。

 

普段から〝見えている〟ことをぼんやりとスルーしてしまうのではなく、時には目を凝らして〝見つめる〟と言う行為を行うことがポイントのように思う。

 

これが最初に書いた、「人は自分が〝見たい〟と思うもの以外は、〝見えて〟いてもその実は〝見て〟いない」ということなのだろう。

 

実は昨日、ある知人が自動車を止めていたコイン・パーキングに、所用を終えて戻ったところ、自動車が見当たらないということが起こった。

 

ご本人はそのコイン・パーキングに止めたと思ってはいたものの、これはおかしいと思って付近のコイン・パーキングを何カ所も回ってみたという。だが見つからない。

 

盗難の可能性もあるからと、とりあえず警察にも届け出て、今日あらためて止めたと思われるコイン・パーキングから範囲を広げて探したところ、自分が思っていた場所とは異なるところにあったらしい。

 

自分では〝ここに止めた〟という場所に対する思い込みと、周囲を〝見ている〟つもりでも、実は〝見えている〟だけだったという見本のような出来事だった。

 

それこそ昼間に、コイン・パーキングから堂々と盗み出すことも難しいだろう。結局は、この記事にあったように〝見えている〟ことと〝見る〟ことの差だと思う。

 

高齢者であれば、こうしたことは他人事とは思えない。私も、時としてやりがちなことだけに、この記事は心にとめておこうと思う。