秋が近付けば風の音も虫の声も | がいちのぶろぐ

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昨日の天気予報で、〝秋雨前線〟という言葉が使われた。明日あたりから日本列島を縦断するように、長い前線が横たわり雨模様になるという予報が出ていた。

 

台風が9号、10号と立て続けに通り過ぎ、日本列島に張り出していた夏の太平洋高気圧から、大陸の涼しい乾いた空気へ一気に入れ替わろうとしているらしい。

 

昨日は京都の最高気温もとうとう30℃に届かず、連日続いていた真夏日がついに途切れた。9月も中旬になり、これからは徐々に秋の足音が聞こえて来るだろう。

 

今年は長く残暑が続き、それに輪をかけてコロナ禍によって気分的に暗い夏になったから、これで幾分でも気持ちが楽になりそうだ。

 

そういえば1カ月ほど前に、日本で生まれ育った人の「虫の声」の聞こえ方が、他の国で生まれ育った人とは異なる、という記事の紹介をしたことがある。

 

私たちは秋の虫の出す音を「虫の声」と表現し、これらを聞き分けたり、心地良い音と感じたりする。だが他の国に生まれ育つと、そうした聞き分けなどができないらしいのだ。

 

 

 

虫が出す「音」を脳がとらえる時に、日本で生まれ育つと言語脳である左脳で感知するけれど、他の国で生まれ育つと音楽脳と言われる右脳で感知するらしい、ということだった。

 

つまり日本語を母語として育つと、脳が虫の「声」として言葉のように捉えるが、その他の国の言葉で育った場合は、日本人であっても虫の音を言語脳で感じなくなるというのだ。

 

面白い事実だと思う。このことを紹介した記事では、この脳の働きの相違が日本語でオノマトペ(擬音語)が発達したこととも関係している、とも書かれていた。

 

オノマトペとは、雨が〝ザーザー〟降るといったように、その状態が生み出す「音」を言葉として表現することだ。〝ピチョン〟と言えば、私たちは水滴が跳ねた音だと思う。

 

 

 日本語には、こうした表現が実に多く用いられている。そもそも、漫画やアニメ、劇画などは、こうしたオノマトペによる表現がなければ成立しないだろう。

 

例えば劇画の格闘シーンで、主人公が指を突き出す時などには、〝シュト、シュトッ!〟と大きく書かれていたりする。

 

〝シュト、シュトッ〟という音など、作中の登場人物にだって聞こえていないだろうけれど、そう書かれていれば、私たちにはそんな音が耳に入ってくるように思えてしまう。

 

また私たちはごく薄い紙を見て、〝ペラペラの紙〟と表現したりするが、この場合の〝ペラペラ〟も、状態を音として表現している。

 

こんな表現方法は、他の国の言語にはない。これを言うなら〝きわめて薄い紙〟という、何とも味わいのない表現になってしまうだろう。

 

このように、音を言葉として感じ取れるということが、日本語を母語として育った場合の特徴だということだった。これは、西洋の人たちが日本で生まれ育ってもそうなるらしい。

 

乳幼児が言葉を覚えて行く段階で、日本語に触れているとそんな結果になるのだということだった。世の中には、いくらも面白いことがあるものだと思う。

 

だから「虫の声」として聞き取れない人は、秋になって虫の音が随分聞こえるようになっても、その音は脳が無意識のうちに他の多くの雑音と同じように判断しているらしい。

 

だから秋が深まり、山から徐々に木々が色付いてきて、虫の声が聞こえるようになる。それを目にし耳にすると、私たちは〝秋のもの悲しさ〟を感じ取る。

 

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる(古今和歌集)

 

藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆき・あそん)が詠んだこの和歌は良く知られているが、では「風の音」とは何だろうということになる。

 

これは一説によれば、「ススキや稲の葉擦れ」の音だということだ。〝ビュー、ビュー〟と木々を揺らすほどの風ではなく、葉が擦れ合って〝サワサワッ〟と立てる音らしい。

 

 

 

まだ暑いと思っていても、吹き渡る柔らかい風に小さな葉が擦れあって立てる音に、〝そう言えば立秋だったな〟とふと気付く、といった情景だろうか。

 

私たちが脳の中で音を言葉として反応する働きが、こうした抒情的な和歌の世界なども生み出してきた、ということなのだろうか。

 

〝日本的なるもの〟というのは、案外とこうした音に対する反応の中にあるのかもしれない。