5月から開講されていた、同志社大学大学院の「ソーシャルイノベーション研究プロジェクト」は、先週で春学期の予定を終えて閉講した。
この講座は無料で開放されているオープン講座で、参加者がテーマを立て、それに賛同するメンバーを「この指とまれ」方式で募って、グループごとの議論がスタートする。
今学期はオンライン形式だったけれど、グループができて2ヵ月あまり、メンバーが議論を重ねて「社会的事業」となるように練り上げてきた。ブログでも何度かこの話を書いた。
私が参加していたグループは、ウィズ・コロナの時代における「マイクロツーリズム」のあり方を示す言葉として、「半径3kmの旅」というタイトルを掲げて取り組んできた。
「半径3km」ということは、「半日程度で歩き回れる範囲」ということを象徴している。そこで、今回の対象エリアとして「京都・島原」地区を取り上げた。
「島原」地区は、豊臣秀吉によって京の町中にあった遊郭が1カ所にまとめられたが、江戸時代の1640年頃に、当時は町はずれだった現在の場所に、突如集団移転させられた。
その移転がいかにも急だったことと、門と塀に囲われた様子から、その頃に九州で起こった「島原の乱」のようだということで、「島原遊郭」と呼びならわされるようになった。
だが正式な住所表記は、今もなお「新屋敷」となっている。新規に建造された家々ということだろう。つまり「島原」という呼び名は全くの通称だということになる。
(カフェを併設しているきんせ旅館)
また幕末には、「壬生の屯所」に駐在していた新撰組の隊士が、遊興のために足繁く通った場所としても知られている。
新撰組が「壬生屯所」としていた「八木邸」がある〝壬生寺〟の北側からだと、南へ真っ直ぐ1kmあまりの場所になる。だから、当時の人の歩く速さを考えれば近所と言える。
ただし遊郭であり、新撰組(当時の京の人の呼び方は「壬生浪(みぶろ)」)が〝御贔屓〟だった場所なので、京都の人々にはかなりマイナスイメージを持たれている場所である。
とはいえ同じ遊郭であっても、江戸の「吉原」が塀と濠に囲われ、大門だけから出入りできる場所だったのと比較すると、「島原」は当初こそ塀に囲われていたが、すぐに塀が無くなったらしい。
その後も演芸場ができたりして、女性客も自由に出入りする場所だったということから、初期はともかく、後には〝歓楽街〟という要素を持った場所になったと思われる。
その「島原」地区には現在も、「角屋おもてなし文化美術館」として、重要文化財に指定されている「角屋」の建物があり、また「輪違屋」というお茶屋も残っている。
(角屋)
(輪違屋)
その一方、島原の「大門」の前に当たる地域には商店街があり、やや衰退しているこの商店街で、町の活性化と取り組んでいる方々もおられる。
(商店街にある飲食店)
こんな場所を「町歩き」をしながら、歴史や文化、新しい動きなどを自分なりに掘り起こしてもらおうという試みを、私たちのグループでは「半径3kmの旅」のモデルと考えた。
こうして、試行を行い企画まででき上がった段階で春学期が終了し、秋学期には、さらにこれを事業として成立させるところまでブラッシュアップすることになる。
ということだが、グループメンバーの一人が、〝それならば〟という感じで、京都の西隣りの「亀岡市」を舞台に、明智光秀にゆかりの〝亀山城下巡り〟の町歩きを企画された。
NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」は、最初からご難続きだった上に、コロナ禍でドラマが中断に追い込まれた。ブームを当て込んでいた亀岡市にとっては災難そのものである。
とはいえ、亀岡市の中心部にはそれなりの観光スポットがあるので、半日で回れる町歩き観光をしてみよう、ということである。まさに「半径3kmの旅」の実践編と言っても良い。
こんな試みを「島原」や「亀岡市」に限らず、なるべく広げて行くことで、ウィズ・コロナの時代の「近場の観光」があれこれと実施できるのではないか、ということだ。
これから秋学期に向けて、こうした「マイクロツーリズム」の実践としての「半径3kmの旅」を、シリーズとして事業化できるように考えて行くことになるだろう。
その先には、京都市内で活性化と取り組んでおられる多くの商店街と、この「半径3kmの旅」を共同企画できるなら、商店街活性化や町おこしと「町歩き」企画が結合できる。
これからの事業の見通しを得るためにも、亀岡市での「町歩き」の実践がどのような形で行えるかも楽しみになる。