人が集まること、集まってくること、というテーマを考えている。人がどこかへ行くには、「必然」の場合と「偶然」の場合がある。
「必然」とは、そこへ行くための「理由がある」ということであり、「偶然」とは、そこへ行くのではなく、他の場所へ行く途中で「通りかかる」ということもあれば、「気まぐれ」でそこへ行くということもある。
「気まぐれ」でそこへ行くとは、そこを「知っていて行く」場合と、そこを「知らずに」まさしく「何かの偶然」で到着する場合とがある。
「知っていて行く」場合は、そこに関してすでに何がしかの情報がインプットされていて、特に行くべき理由はないけれど、とりあえずその時にそこに行くということだ。
一方で、そこを「知らずに」行くということであれば、何の事前情報もインプットされないままに、ただ単にそこへ「たどり着いた」ということになる。
いったい何が言いたいのかを、あらためて整理しておきたい。「人が集まってくる」ためには、まず「そこへ行こう」と思う〝何らかの理由〟があることが前提になる。
買い物なのか、イベントなのか、人と会うためか、とにかくそこへ行くべき「必然的な理由」があって人はそこへ行く、ということになる。
だから、商店街やデパート、大型ショッピングモールであったり、イベントや公演であったり、必然的に人を集めるための「仕掛け」が求められることになる。
要するに、そこへ行けば自分にとって楽しい何かがあるか、そうでなければ、そこで人に会うための用事がある、といった具体的な理由があることで人は集まってくる。
反対に、そこに何も積極的な意味を持つ「仕掛け」がなければ、個人的な用事以外では人は集まって来ない。
さらに、「偶然にそこへ行く」という場合でも、事前に情報が何もインプットされていないまま人がそこにたどり着くのは、まさに偶然そのものであり、「たまたま通りかかる」のと大差がない。
つまり「そこ」が何かの情報源によって知られている場所でなければ、通常は人が集まってはこない。あまりにも当たり前のことを、くどくどと書いているように思えるだろう。
「多くの人が集まってくること」の大前提には、多くの人に対して、そこに行くべき理由を、事前情報としてインプットしてもらうことが必要になる、ということなのだ。
これが情報発信の必要性なのである。では、情報を発信してそこが存在することを知らせたとして、それだけで人は来るのかという問題になる。
何の興味も引かなければ、たとえ情報を受信してそこを知ったとしても、人はそこへ「行く気」にはならない。つまりは「興味を引く」だけの「理由」を作り出せなければ、その情報は何の意味も持たない。
まずは人が興味をもって、行ってみたいと思うような「タネ」を作り出して、その「タネ」の面白さを情報として伝えることが、何よりも重要なポイントになってくる。
「誰が」「何に」「なぜ」興味を持つかを考える。その上で、「誰に」「何を」「どのように」伝えるかを考えて初めて、「人を集める」ための作業を開始することになる。
1回限りではなく、リピーターとして何度もそこを訪れるということになれば、そこにはよほど大きな「吸引力」がなければ成り立つものではない。
まして、さらに集まって来る人を増やそうと思えば、リピーターを増やさなければ難しい。そのためには、それだけの「吸引力」がある魅力的な「コンテンツ」がなければならない。
今、私が参加している同志社大学院の「ソーシャルイノベーション研究プロジェクト」で、京都のかつての遊郭「島原」地区をターゲットとして、その町を活性化するための方策を考えている。
(島原にある「きんせ旅館」のレトロなカフェ)
これから新たな「コンテンツ」を作り、新たに人々を「呼び込む」ための方策づくりである。
そのためにはまず、そこに「島原」という町があることを、出来るだけ多くの人に知ってもらうことから始めないといけない。「知らない」ことは「存在しない」ことと同じだ。
次には、興味を引く「コンテンツ」によって、そこへ「行ってみたい」と思ってもらわないといけない。
その上で、できればリピーターになってもらわないといけない。そんなうまい方策など、簡単には見つかるわけがない。だが、「町の活性化」のためにはそれが欠かせない。
さても難しいことにチャレンジを始めたものだと思う。なるべく多くの人たちに、そこへ「来ること」の必然性を見出してもらうという作業だから。