ならば、祭りも神輿もやればいい | がいちのぶろぐ

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世の中がこんな状況でなかったなら、明日は「祇園祭」の宵山で、明後日は山鉾の巡行の日だった。すでに5月の「葵祭」は中止になり、祇園祭も神社での神事は行われているが、一般人が見物できるような催事はない。

 

 

(昨年の宵山の風景)

 

来月のお盆の行事「五山の送り火(大文字)」も、〝お盆の送り火〟という宗教行事として少しだけ火床に火を入れる。だけど大の字や妙法、舟形、鳥居形にはならない。だからイベントとして見物する意味はない。

 

 

(昨年の五山の送り火・大文字)

 

82日から開催されるはずの青森の「ねぶた」も、8月中旬の「阿波踊り」もすでに中止が決定されている。

 

こうして祭りが次々と中止されれば、宗教行事として小規模な神事などが行われることはともかくとして、人々が祭りに抱く想いを吸い上げる手段はなくなる。

 

この先、ウィズ・コロナとしてコロナウィルスと付き合っていくということは、人々が集まり、高揚する場であった祭りが存続できなくなる可能性がある、ということだろうか。

 

お神輿を担ぐことはまさに「密集・密接」の極みである。大声で掛け声もかけ合う。となれば、神輿渡御すなわち〝神様の渡り〟という神事自体が、存続はほぼ不可能ということになってしまう。

 

 

(東京「富岡八幡」の神輿)

 

大雨などでの中止や、過去には戦争で中止といったことは、いろいろな祭りの歴史の中であっただろう。しかし今回のコロナ禍は、もし収束まで時間がかかるとなれば、伝統行事の存亡に関わってくるかもしれない。

 

祇園祭などは「町衆の祭り」として、鉾町の人々の奉仕で成り立っている。それも現状すでに、各鉾町が京都市のど真ん中にあるということから、住民の数が激減している。

 

 

(祇園祭では鉾町の子どもたちも頑張っている)

 

そこへこのコロナ禍で、数年も祭りが行えないという状況になれば、そこから再び立ち上がって祭りを再興することは、とても大変なことになるだろう。

 

これは青森の「ねぶた」などにも言えることだと思う。1基の「ねぶた」を制作するのにかかる費用は、数千万円にもなると聞いたことがある。これを賄うために、企業から寄付を仰いだりしている。

 

 

 

これも状況次第では、この先は寄付集めが困難になるかもしれない。各地で行われる大小さまざまな規模の盆踊りでも、同じことは起こり得るだろう。

 

コロナ禍という状況が、日本全体の伝統行事に壊滅的な打撃を与える可能性がある。もちろん人の命があってのことだから、これも致し方がないことだ。

 

なによりも、「祇園祭」は千年以上前に流行り病が蔓延した時に、「疫病退散」を願って始まった歴史がある。それが「疫病」によって窮地に立たされるというのも皮肉なものだ。

 

 

 

だが、そうしてでもコロナ禍を何とか食い止めないといけない、と人々はじっと耐えている。そんな時なのに、政府はノー天気に「Go Toキャンペーン」だという。

 

ここまで人の気持ちを踏みにじり、耐えている心に冷水を浴びせかける政府とは、いったい何モノだろうかと思ってしまう。

 

それならいっそのこと、夏祭りのお神輿担ぎでも盆踊りでも、何もかも一斉に「疫病退散」と大声で〝わめきながら〟やってしまえば、それこそスッキリするだろう。

 

 

 

Go Toキャンペーン」によって各地にコロナ禍を拡散させられるくらいなら、こっちから〝暴れ神輿〟、〝喧嘩神輿〟でコロナウィルスを迎えに行って、あえなく〝憤死〟した方がスッキリする。

 

政府によってジワジワ感染拡大されるくらいなら、こちらから〝ぶつかって〟行った方が、気持ちだけでもスッキリするくらいだ。伝統行事も、途切れることなく守れる。

 

西村大臣は、なにがなんでも「Go Toキャンペーン」を実施すると、あらためて国会の委員会で言った。ならば〝掛かってこいや~〟と言い返したい。こんな〝やけくそ〟気分になってしまう。