夏越の祓の「茅の輪くぐり」で疫病退散を | がいちのぶろぐ

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今日は梅雨の晴れ間。明日からはまた梅雨空が続く、という天気予報だったので、思い切って散歩に出掛けてみることにした。

 

とは言え、歩くのはなるべく涼しい間にしようということで、朝9時には家を出て、時間的に比較的早く着ける「北野天満宮」に行って、「茅の輪くぐり」をすることにした。

 

 

 

明日は6月末日、一年の折り返しであり、「夏越(なごし)の大祓」の日。だから「茅の輪」をくぐって、暑い夏の間の〝疫病〟を防ぐお願いをする、という行事である。

 

 

 

だから多くの神社などではこの「茅の輪くぐり」のために、明日までは直径2.5mほどの「茅の輪」が設けられている。

 

 

ということで北野天満宮へ出掛けたが、予想通りと言うべきだろうか、平日の朝ということで境内は人が少なく、ガランとした感じになっていた。

 

正式な(?)「茅の輪くぐり」のお参りの方法は、置かれた「茅の輪」を8の字を描くように3度くぐるのだが、「密を避けるため通り抜けだけに願います」と横に書かれていた。

 

密と言うほどの人出でもないけれど、3回も「茅の輪」をくぐるのはさすがに遠慮して、一度だけ8の字に「茅の輪」を通ってお参りをした。

 

 

(手水舎にも季節の彩が「花手水」として)

 

本殿にお参りをしてからは、滅多に行ったことがない本殿の裏側に当たる北門の方へ行ってみた。そこには、「西陣織」の発展に貢献した方の大きな顕彰碑が建てられていた。

 

 

 

つまり、北野天満宮の東側一帯から堀川今出川辺りまでの広い範囲が、俗に「西陣」と呼ばれる地域になる。あくまで〝俗称〟で、行政的な地名としての「西陣」は存在しない。

 

応仁の乱の時に、「西軍」の山名宗全が陣を敷いたから「西陣」。堀川通りから東側は「東軍」細川方の陣だったから「東陣」なのだけれど、こちらはその名前が残されていない。

 

西軍は戦いに敗れたのだけれど、そのあたりに織物職人が集住するようになり、そこで織られる高級な絹織物が「西陣織」として知られるようになったので、「西陣」という俗名は残った。

 

また北野天満宮の東側には、京都の5花街で最も古い歴史を持っている「上七軒」のお茶屋街がある。その道沿いは、今も地元の人たちが「景観保全」のため外観を保っている。

 

 

 

(上七軒の通りにある郵便局の外観もこんな感じに)

 

この上七軒を東に向かって通り抜け、「上七軒」バス停から来たバスに乗ってから行く先を決めようという、気ままな考え方でバスに乗り込んだ。

 

 

(上七軒の東端にある瓦屋さんには西陣と書かれていた)

 

偶然にも最初に来たバスが、昔「チンチン電車」と呼ばれていた市電が、京都駅と北野天満宮の間を走っていた、そのコースをなぞって通るという系統の京都駅行きだった。

 

今は北野天満宮からさらに金閣寺まで行くという経路になり、少しコースを変えてはいるけれど、それでも途中で狭い「中立売通り」を通り、四条通りから南も狭い「西洞院通り」を通っている。

 

こうした狭い通りを市電が通っていたことも、今から思えばビックリだが、市電が通っていた区間だけ、その〝道〟の他の地域の部分より道幅がやや広くなっているのも、何となくユーモラスな感じがする。

 

 

(中立売通りにある「北野商店街」の歩道にはこんなものも)

 

ということでJR京都駅まで行って、駅ビルにある伊勢丹で昼ご飯を購入し、自宅まで帰るバスに乗りこんで正午前には家に戻った。こうして今日の散歩は終わった。

 

ところであと1週間もすれば〝七夕まつり〟になる。だから北野天満宮も、「茅の輪くぐり」と合わせて「七夕まつり」の笹が至る所に立てられていた。もうすぐ、京都の暑い夏を迎える時期になる。

 

 

(北野天満宮で見かけた七夕飾り)

 

今年は残念ながら717日と24日の祇園祭の山鉾巡行が中止になった。この祭りも、1千年以上前に疫病が流行った時に、「疫病退散」を願って始まったとされている。

 

今日は比較的カラッとした晴れ空だけど、これからまたしばらく蒸し暑い日々が続くことだろう。