町の活性化策を考えるために | がいちのぶろぐ

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朝から「島原地区」の活性化策について、〝ああでもない、こうでもない〟と思いを巡らせていた。

 

 

(「角屋」の建物/京都・島原)

 

「知り合いの宿泊施設がコロナ禍でお客が激減しているけれど、何か〝対応策〟がないだろうか」という、あるチームメンバーの問いかけから、コトがスタートした。

 

同志社大学大学院の「ソーシャルイノベーション研究プロジェクト」という、誰もが自由に参加できるオープン講座で、この春学期の研究テーマを「この指とまれ」方式で決めた際に、この講座に参加している方が呼びかけたテーマである。

 

この方が仕事上で付き合いのある「島原地区」の旅館「湯の宿松栄」では、コロナ禍のために9割以上お客が減っている、ということだった。

 

 

 

そこでこのテーマに賛同したメンバーが集まってチームを作り、何はともあれ「島原地区」という、京都の人間でもあまりなじみがない地域のことを知ることから始めようとなった。

 

「島原」は、16世紀末に京の町中で統合されてできた遊郭が、場所を移しながら1641年になって、当時は田畑の真ん中だった現在の場所に、無理やり移転させられたことから始まった。

 

 

 

幕末には新撰組の隊士が足繁く通った、といった歴史的なエピソードはあるけれど、京都の他の5つの花街と比べると、町外れにあるという地理的な不利から逃れることができず徐々に寂れて行った。

 

 

 

現在は、30年余り前までお茶屋として営業をしていた「角屋(すみや)」の建物が重要文化財に指定され、「角屋もてなしの文化美術館」となっている。また、唯一残ったお茶屋「輪違屋(わちがいや)」が営業を続けている。

 

 

(唯一お茶屋として残っている「輪違屋」)

 

しかし何よりも「島原」と、京都の他の5つの花街との違いは、島原には「太夫」が存在することである。他の花街には舞妓・芸妓はいるけれど、島原には「太夫」と呼ばれる独特の存在がいる。

 

こういったことを、京都の人でも今は知らない人の方が多い。京都で最も有名な花街「祇園」では、舞妓・芸妓さんを写真に収めようと、昨年まで〝観光公害〟とまで言われるほど外国人観光客が殺到していた。

 

 

(祇園を歩く舞妓・芸妓さん)

 

一方で、島原に太夫さんはほんの数人いるけれど、日頃から太夫の衣装で町中を歩いているわけでもなく、その姿を目にする機会も滅多にない。

 

 

(太夫道中/常照寺吉野太夫忌に催される/京都・鷹峯)

 

こうして「島原地区」は、今では忘れられかけている存在になっている。だがこうした町で、地域を盛り上げようとしている人たちもいれば、それなりに歴史を感じさせるカフェなどもある。

 

 

(きんせ旅館のカフェ/島原)

 

だから、「島原地区」を〝今に活きる楽しい町〟として活性化させることで、現在は苦境にあえいでいる宿泊施設も合わせて、生き延びる方策が見出せないだろうか、ということで話し合いを続けている。

 

こんなことで先週の日曜日には、チームのメンバーで島原地区とその周辺地域の「町歩き」を行って、現状を視察することもできた。

 

 

(島原商店街の料理店「乙文」)

 

京都に生まれ育った私も、この町のことはまったくと言ってもいいほど知らなかった。というよりも、そこを通ったことすら23度しかなかった。

 

島原地区はJR京都駅からもさほど遠くはなく、近くには京都水族館などもあるけれど、この地区が観光スポットとなるには、〝アピール・ポイント〟という点で限界がある。

 

だからこそ、この地区を〝楽しめる町〟として認識してもらうための「仕組み」や「仕掛け」が必要になると思う。

 

だから今日も朝から、この町の活性化戦略をあれこれと考えていた、ということである。とはいえ、そんなことはちょっとやそっとで思いつくような内容でもない。

 

何よりも、私は直接にこの地区の町おこしと関わって来た人間でもない。きっと今までも、この町と関わってきた人たちが色々と考え、実行してきたはずである。

 

 

(島原商店街にあるカフェ)

 

だからこそ、この町と長く関わってきたキーパーソンに会って、お話をうかがってみたいと思っている。そこからしか話は始まらないと思う。

 

ただこちらは「岡目八目」という立場である。横から眺めることで、その中にいる人には見えないことが見えるかもしれない。それを期待して、活性化策の企画案を考えてみたいと思う。