夏の暮らし方の移り変わり | がいちのぶろぐ

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梅雨の晴れ間の好天になった。我が家では朝から、家人がエアコンの大掃除を行っている。今となれば、京都の夏を乗り切るためにエアコンは避けられない必需品である。

 

私が子どものころは、当たり前だがエアコンなどなかった。昔ながらの黒い金属扇の着いた扇風機が、夏に対処する唯一の近代的な武器だった。

 

 

 

カラカラという乾いた音とともに、部屋の隅から生ぬるい風を送って来る。それでも、昼間に思いきり汗ばんだ身体には、この風が心地良く感じられた。

 

 

 

あとは襖(ふすま)や障子(しょうじ)が、簾(すだれ)と葭簀(よしず)の障子に置き換えられ、寝間には緑色の蚊帳(かや)が鐶(かん)から吊るされていた。

 

 

 

こうした諸々のものすべてに、振り仮名が必要な時代になった。それがどんなものだったか、写真か絵でもないと説明できないし、わからないと思う。

 

 

(蚊帳を吊るしている輪っかが「鐶(かん)」)

 

今では「和風」の暮らしというけれど、和風も何もないそれが普通の暮らし方だった。収納キャビネットも、ウォークインクローゼットもない。水屋(みずや)と押入れと卓袱台(ちゃぶだい)があった。

 

 

 

茶の間から二階へ上がる階段の下は、階段箪笥になっていた。そんな暮らしが快適だったかと聞かれれば、快適という言葉が示す〝評価基準〟が根本的に違うから答えようがない。

 

 

 

そんな暮らし方が当たり前だったから、快適でも何でもない〝普通だった〟としか答えようがない。みんながそんな暮らしをしていた。

 

「京町家」という言い方がある。わざわざ〝京〟と着ける必要もないと思うけれど、町中のごくありきたりの家だった。

 

 

 

京都の家々は〝うなぎの寝床〟と言われるが、これは間口の広さで税金を取られたからだと説明されたりもする。

 

しかし限られた都市空間に多くの家を建てようとすれば、幅広で奥行きを浅くするよりも、いずれ1軒ごとの面積は限られるのだから、間口を狭くして奥行きを取る方が効率的だ。

 

これは仕方がない生活の現実であり、知恵だったのだと思う。奥行きが深いから、途中に明り取りがないと薄暗い部屋ができてしまう。だから坪庭を作り、明り取りとした。

 

細長い敷地の片側に部屋を寄せて、反対側が通り庭になり、そこには井戸があるから台所になる。敷地の形状と井戸というインフラによって、すべてのレイアウトが決まって行く。

 

 

(一昨日の「島原」町歩きで見つけた通り庭の台所)

 

坪庭の向かい側、通り庭に沿ってトイレがある。ここは渡り廊下で結ばれて、最奥部に奥とも離れとも呼ばれる部屋が置かれる。

 

そのさらに奥は、余裕があれば奥庭があり、なければ物干し場などとして使われることもある。こうして出来上がった家が町家だった。

 

どこの家にお邪魔しても間取りはほぼ同じだから、トイレを借りる時にも、だいたいは間違うことがない。

 

中には、井戸をお隣りさんと共同で使うような建て方の場合もあった。だから隣り同士は、必然的に顔が見える関係だった。こんな暮らし方が日常であれば、それを不思議には思わない。

 

むしろ、コンクリートの箱の中に閉じ込められるマンション暮らしなどは、息が詰まってしまうというくらいの感覚と言っても良い。

 

今になって、京都らしさを保つために京町家を大事にしよう、などと言われてみても、私の世代にすれば「こんな家ではダメですよ」と言ったのは誰だ、と言いたくなる。

 

 

 

現在住んでいる我が家も、もう古家になってしまったけれど南北に細長い。奥から入口まで窓を開け放っておけば、エアコンなどなくても風が通って気持ちが良い。

 

だけど、さすがに京の町の真夏はそれくらいではどうしようもない。だから今では、エアコンが必需品となってしまった。

 

汗をダラダラ流しながら、団扇(うちわ)をバタバタさせて過ごすのはさすがに辛い。その団扇も、今では竹製品ではなくプラスチックの骨になっている。

 

 

 

もっとも、扇子はまだまだ竹の骨だ。せめてこれだけでも救いだろう、と思っていたら、先日バスの中で見かけたのは、手持ちの扇風機で顔に風を当てている女性の姿だった。

 

 

 

なんたることだ。とうとう、扇子がハンディタイプの扇風機になってしまった。これでは風情などあったもんじゃない、と言ってみたって、時代が変わったからと言われそうだ。

 

だいいち竹の骨の扇子よりも、ハンディタイプの扇風機の方が安いくらいでは、伝統工芸などどこかに吹っ飛んでしまうのも仕方がないのだろう。

 

こんなことを言っている間に、家人がエアコンの掃除を終えて、煙草のヤニで少し黄ばんでいたエアコンのボディも元の白さに戻った。こんなにキレイだったのかと思う。

 

 

(まだ多少汚れが目立つのもご愛敬ということで)

 

いや、これは煙草を吸うから悪いのであって、エアコンのせいでも何でもない。ひたすら私が悪いのだ。