さて島原がフィールドと決まった | がいちのぶろぐ

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さて今日から都道府県の境をまたぐ移動が、基本的に認められるようになった。決してコロナ禍が収束したわけではないが、それでも逼塞していた経済活動はこれで徐々に回復に向かうだろう。

 

とはいえ、相手は目に見えないウィルスである。どこに潜み、誰の身体にとり着いているかはわからない。用心に越したことはないだろう。

 

そんな中で昨日の午後は、私が関わっているNPO団体の会議がオンラインで行われ、夜には、参加している同志社大学院のソーシャルイノベーション研究プロジェクトもオンラインで行われた。

 

このところ会合や授業などがオンラインで行われるため、3カ月ほどの間に私もオンライン活用にすっかり慣れてしまった。高齢者といえども、進化はそれなりに起きている。

 

今日は午後から、お手伝いをしている高校の「総合学習」があった。こちらは今月から登校が再開され3週間が経過した。生徒たちは、やはり友だちといられることが楽しそうだ。

 

昨夜のソーシャルイノベーション研究プロジェクトでは、20名ほどの参加者が、テーマを掲げて立候補した人の下に「この指とまれ」方式で集まって、それぞれグループを形成した。

 

これから1カ月余りで、グループごとに掲げられた社会的テーマに従って、議論や実地見学などを行っていく。私は「半径3キロの旅」というテーマを掲げた方に賛同して、そのグループに入った。

 

自分でも頭のなかでテーマを立ててはいたのだが、この間「マイクロツーリズム」ということを考えていたので、この「半径3キロの旅」というテーマにスッと気持ちを投影することができた。

 

そこで、まずはフィールドを確定させようという話になり、テーマを立てた方が「京都・島原地区」を主題にしておられたので、とりあえずここを今回のフィールドとすることになった。

 

 

 

「島原」とは、江戸の「吉原」、大坂の「新町」と並ぶ、幕府公認の「遊郭」だった場所である。京都には今も「五花街」と言われる花街があるが、売春防止法が施行されて以来、「遊郭」という存在は姿を消した。

 

 

 

しかし「島原」は現在も〝生きた文化財〟として、「角屋(すみや)」という昔の置屋さんに「太夫さん」がいて、パフォーマンスとして往時の所作や芸事、「花魁(おいらん)道中」の復元なども見せてくれる。

 

 

 

そんな場所が「島原」である。現在も、「島原大門」と称される「廓(くるわ)」の入口だった門と見返りの柳も残っているし、町並みの雰囲気も独特の風情を持っている。

 

 

 しかし島原地区にある宿泊施設や商店街が、コロナ禍の影響で青息吐息であることは〝いずこも同じ〟状態である。

 

そこで今回は、この島原地区をフィールドにして、〝京都市民〟に「島原」という独特の地域をもっと知ってもらうこと、そこを〝マイクロな〟観光に訪れてもらうことを目指すことにした。

 

 

 

それでさっそく、明後日の日曜にはこの島原地区を見学し、宿泊施設を訪問して現状をインタビューすることになった。このテーマで立候補した人が、仕事上で旧知の旅館があるということで。

 

 

 

実は偶然なのだが、私は先週くらいまで沖浦和光氏の「『悪所』の民俗誌」(文春文庫,2006)を読んでいた。なので、その本の中の「島原」と関係した記述がある部分に、午前中にさっそく付箋を貼り付けた。

 

これで、ザックリとした「島原」の歴史は頭のなかに入れることができた。成立は豊臣秀吉が寺を集めて寺町を形成した時に、同時に遊女がいた場所を1カ所に集めたことに由来することもわかった。

 

 

これが16世紀末の出来事だから、それから現在の場所になるまでに2度移り変わったけれど、この遊郭自体は300年以上の歴史を持っていることになる。

 

ましてや幕末には、「新撰組」がよくこの場所に出入りをしていたことでも知られている。そんなことを思い返しながら、明後日は町歩きをしてみたいと思っている。