この間配信されるインターネット情報誌「TRIP EDITOR」では、温泉の記事がよく目に着くような気がする。そのキーワードは「癒し」である。
すでに3カ月に及ぶ自粛中心の生活も、少しずつだが旧に復し始めている。それでもストレスを溜めこんでいる人は多いと想像できるから、こうした記事が多くなるのだろう。
もちろん、「温泉どころの騒ぎではない。この先も死活問題が続いていく」という方も少なくないだろう。だけど、可能ならストレスを発散したいという人のために、温泉の紹介記事は確かにタイムリーだ。
昨日のブログも、アフター・コロナの時代の観光というテーマで書いたが、温泉紹介の記事も、いわば同じところから出て来た発想だと思う。
昨日は、星野リゾートの星野佳路氏が提唱されている「マイクロツーリズム」の可能性を書いたけれど、そこで「温泉とマイクロツーリズム」を組み合わせれば、一つの視点が得られるのではないかと思った。
(「理念と経営」6月号より)
星野氏が言われる「マイクロツーリズム」の観点は、「地域の人が地域を旅行して、地域を再発見する」ことから始まり、「地域の中でのネットワークを構築して行く可能性」ということだった。
それなら、思い切って「近場の温泉旅行」ということが考えられる。極端に言えば宿泊を伴う旅行でなくても、「日帰り温泉の楽しみ」ということだって考えられる。
そうは言っても「スーパー銭湯」ではなく、もう少し「温泉らしさ」を感じられる、例えば温泉がある宿泊施設が提供する「日帰り温泉と昼食セット」、といった楽しみ方である。
これによって、ほんの少しかも知れないけれど〝贅沢感〟も含めて、「癒し」やリフレッシュの気分が得られるように思う。
それなら近場に出掛けるにしても、宿泊というほど準備なども大変ではない、旅館などでの「日帰り温泉と昼食」セットが適当、ということにならないだろうか。
例えば私の場合で言えば、叡山電鉄の終着駅「鞍馬」駅から少し歩けば「鞍馬温泉・峰麗湯」がある。ここなら我が家からほぼ1時間の距離で、まさにマイクロツーリズムである。
電車を下りたらまずは鞍馬寺まで長い階段を上り、お参りを済ませて山を下りる。それから少し歩いて鞍馬温泉に向かう。
この旅館で昼食を食べてから、ゆっくりと温泉につかり、最後に鞍馬駅の周辺でお土産の「山椒の木の芽煮」でも買う。
鞍馬温泉の場合は、昼食と日帰り温泉のセット料金は5千円程度になっている。電車賃は往復で千円ほど。それに拝観料とお土産代ということになる。
夕方には家に帰り着くことができ、ちょっぴり贅沢感を味わうことができる。地域の中と言っても良い距離感だけど、都市部ではない〝山の中〟で新緑に囲まれて一日が過ごせる。
こんな一日が過ごせれば、「癒し」にもなるだろう。しかも、これだったら生活が破たんするというほどの出費ではない。もちろん安いというわけではないが、少しの贅沢だ。
一度足元を見つめ直して、こうした非日常の過ごし方を考えてみるのが「マイクロツーリズム」という考え方だろうと思う。
「遠くへ行きたい」という旅の対称形として、〝ほんのそこら辺り〟という場所で、しかも普通ならそこで1日はなかなか過ごさないだろう、という場所で、タップリと1日を過ごしてみれば、今までとは違った地域の姿が見えてくる。
もう少しだけ足を伸ばすなら、京都市のお隣りの亀岡市に「湯の花温泉」がある。ここへ行こうとすると、地域というよりもう少し広い範囲になる。
しかし普通に考えれば、湯の花温泉に泊まりがけで行こうという気にはならない。亀岡市の町外れだが泊まるには近い。でも、急に思い立って行くには遠い。そんな距離感だ。
同じ京都府でも日本海側へ行くとなれば、せっかくだから日帰りよりは宿泊となる。自動車であれば片道1時間半ほどの距離なのだが、旅行気分になれる程度の距離感である。
京都市内の人間からすれば、日本海側より神戸市へ行く方が近いと感じる。これは交通機関の便利さに由っている。亀岡市の湯の花温泉であれば、神戸市の有馬温泉と同じくらいの感覚になる。
(有馬温泉/神戸市)
それでも、この辺りの温泉地までなら「日帰り入浴」も可能である。「マイクロツーリズム」としてギリギリの距離感だろう。
だから日帰りから、近場での宿泊までの「マイクロツーリズム」だって、考え方次第では随分と方法はあるものだ。1時間あまりの距離感で、さらに日帰り温泉入浴を組み込めたら、それでも十分だとなる。
ましてや、近場で宿泊付きの「マイクロツーリズム」となれば、「地域の再発見」としては随分と可能性が拡がるだろう。