アベノマスクがやっと届いたけれど | がいちのぶろぐ

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我が家にも、昨日やっと「アベノマスク」が届いた。全国的にみても、最も遅く届いた方だろう。明日か明後日にも、配布が終わると言われているから。

 

それと我が家に届いた「アベノマスク」は、今までフェイスブックに上げられていた写真とは、同封されている文章の体裁や表現などが少し異なっていた。

 

 

(我が家に届いたマスク)

 

それにしても、もう6月中旬である。何度も言うが、市中で販売されているマスクが値崩れすら起こしている時期だ。来週には県境を越える移動の自粛も、終わろうとしている。

 

 

 

「アベノマスク」は、41日に突如発せられた。以来、2か月半の期間を要した。だが考えてみれば、そんなことは当たり前だろう。

 

委託先募集の公報から始まって、受託申請→委託先決定→製造→納品→配布という作業を行うには、どうしてもこれくらいの期間が掛かることくらいは、誰にでもわかるだろう。

 

これでも、受託者が頑張ったから仕事は早い方だと思う。お役所仕事としてはまずまずかも知れない。スピード感を考えれば、こんな施策を言い出したこと自体が間違いだった。

 

〝気休め〟以下の施策を、さも大事なことのように大袈裟に言ったから、こんなにも非難され、揶揄され、馬鹿にされるのだ。挙げ句の果てに、数百億円の税金が露と消えた。

 

星野源さんの楽曲とコラボしたのは、税金がほぼ注ぎ込まれなかったから、その点は我々には救いだが、あまりにも人を小馬鹿にした内容だったからたいへんな怒りを買った。

 

 

 

この間、官邸が行った施策はとにかくトンチンカンのオンパレードだった。それもこれも、庶民の心を考えることもなく、頭の端っこで考えた小手先の施策だったから。

 

深い思索や戦略的な裏付けもなく、行き当たりバッタリの人気取り策を考えると、どんな結末が待っているかという見本だった。それもこれも、トップの人間性から発したことだろう。

 

これまでのインフルエンザの流行の傾向からみると、冬場にピークを迎えていたから、今回も高温・多湿になれば収まるのでは、と言われたこともあった。しかし、季節が逆の南半球にも拡大した。

 

さらに、高温多湿の緯度の低い地域の国々でも大量に感染者が出た。だから、この新型コロナウィルスは、SARSやMERSの時よりも厄介なウィルスだとも言われている。

 

コトの発端は中国の武漢市からだと思われるが、中国政府は頑としてそれを認めようとはしない。これを認めて謝罪すれば、賠償金を出せと世界中から言われるに違いないから。

 

政治とはある意味で残酷なものだ。謝罪と賠償は常にセットになっているから。しかも中国は世界に向けて検査装置やスタッフ、器具備品を送り、善意のサポートをしようとした。

 

しかしその器具備品などに次々不良品が見つかって、かえって相手国の怒りに火を注ぐ場面もあった。これもまた、拙速のなせる業だったと思う。

 

そして現状では、大統領が経済を優先して、コロナ対策の手を打ちたがらないアメリカとブラジルが悲惨な状況になっている。

 

次には、対応策そのものに限界が起こり得るアフリカ諸国が、たいへんな状況に追い込まれるだろう。その兆候は既に始まっているらしい。

 

不人気の「アベノマスク」を回収して、アフリカへ送るというNPO団体も現れている。これは良いことだ。こうした取り組みができるNPOがあることも素晴らしい。

 

 

(フェイスブック上で見かけたマスクの写真)

 

その反面、この国の状況はどうだろう。来週で国会は終わるが、この間の給付金の手続き代行機関の契約を巡って、トンネルだの中抜きだのと、不愉快な話が飛び交っている。

 

その議論を打ち切るためにも、国会を延長せずに閉会してしまうという。臭いものには徹底的に蓋をすることで、とにかく逃げ切りを図り、〝人の噂も75日〟を決め込もうとしている。

 

〝まあ良いか〟で済まされることではない。「Go Toキャンペーン」の代行手数料だって、3千億円という金額の是非を巡って、話は尻切れトンボになるだろう。

 

二次補正予算の予備費10兆円だって、結局うやむやになっている。また美味い汁を吸う人間が現れることぐらい庶民も知っている。そして、そんなものだとあきらめている。

 

庶民はあきらめることに慣れている。今までも、何度もあきらめさせられてきたから、「今度もまたか」という感覚だ。だがこんな政治は良くない。民主主義とはかけ離れている。でも、そんな政権を勝たせてきたのもまた庶民なのだ。

 

今回、東日本大震災が発生した時との決定的な違いは、国民全体がある意味で〝被災者〟という感覚でいることだ。誰かに手を差し伸べる、という善意の第三者にはなれるわけがない。

 

それ以上に、自分の身に災厄が降りかかっているという意識になっている。そんな中で、手を差し伸べられる機関が政府だけど、これがトンチンカンな状態だから、庶民はあきらめるしかなくなる。

 

こんな時期にトップの御都合だけで、高級官僚が居座りを決めたり、甘い汁を吸う機会があったりとなれば、これはもう〝火に油〟どころではないことになる。

 

トンネル機関と名指しされている団体の上層部と、そこへ仕事を発注する部署のトップが癒着しているとしたら、もう〝何を言えばいいのか〟というあきれた感覚になる。

 

ここを突っ込まれたとたんに、時間切れでチョンとなるのだから、政府にとってこんなありがたいことはない。さっさと幕切れにして、後は〝知らぬ存ぜぬ〟を押し通すしかない。

 

やれやれ、これでまた暑い夏になり、台風が次々とやってきて被害が発生したなら、避難所が「三密」になって大騒ぎになることだろう。

 

 

(一昨年の台風時の鴨川の増水の様子)

 

どうせ政府には見捨てられた庶民だから、騒いでみても仕方がないけれど。それでも、こんな政権政党を、この間ズッと選挙で勝たせてきたのも庶民なのだから。