葵祭が中止なので「うんちく」を少し | がいちのぶろぐ

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今日515日は、本来であれば葵祭の日だった。

 

 

 

それがこの間のコロナ騒動で、大勢の見物客や行列に参加する人が感染する可能性もあるため、市内を巡行する行列の中止が331日に発表になった。

 

昭和281953)年に葵祭が復活して以来、今までも悪天候のために順延されることもあれば、一度だけ悪天候が続いて中止になったこともあった。だが今回のように社会情勢を理由として、早々と中止が決まったのは初めてのことだ。

 

そこで今日はこの『葵祭』という、実は少し〝変わった〟祭りの「うんちく」話を書いておこうと思う。

 

そもそもこの葵祭、神社の正式な呼び名では賀茂祭は、その起源が平安京以前にまで遡るという長い歴史を持っている。

 

観光客などが見物している、〝平安絵巻〟とも呼ばれる平安時代の装束の行列は、あくまでも天皇のお使い、すなわち勅使が下鴨・上賀茂の2つの神社に『下向』する際の行列を模したものである。

 

 

(下鴨神社)

 

つまり他のお祭りとは異なって、神様が動かれることがお祭りのハイライトとなる、という構成にはなっていない。まずそのことを知っておいてもらいたい。

 

 

(上賀茂神社)

 

それでこのブログでは、下鴨神社・上賀茂神社のホームページや、本多健一氏の著書「京都の神社と祭り」(中公新書,2015)を参考にしながら、このお祭りを紹介したい。

 

賀茂祭の起源は正確にはわかっていない。ただ、下鴨神社のホームページでは「『続日本紀』の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された」と書かれている。

 

 

 

平安遷都は桓武天皇の時代の794年だから、その100年前には、すでに大勢の見物人が集まる盛んな祭りになっていた、ということになる。

 

賀茂社(下鴨神社と上賀茂神社)という名前からわかるように、この2つの神社は「賀茂(鴨)族」が信仰する氏神様だった。この一族では「方丈記」を著した「鴨長明」や、江戸時代の国学者「賀茂真淵」などが知られている。

 

 

(下鴨神社の境内の河合神社にある「方丈の庵」の再現)

 

ということは、平安京の以前から現在の鴨川の周辺に住んでいた豪族の「賀茂(鴨)族」が、自分たちの氏族の祭祀を行っていたとしても不思議ではない。

 

それで、512日には下鴨神社では「御蔭(みかげ)祭」、上賀茂神社では「御阿礼(みあれ)神事」という神事が今も執り行われている。

 

これは新たな神が生まれ、それを神社にお迎えする神事である。「御阿礼」とは「御(み)生(あ)れ」という字を当てることもできる。神様の「生誕祭」である。

 

つまり一般的に神社のお祭りでは、神輿に乗って神様がお出ましになる行事が中心になるが、それに該当するものがこの「御蔭(みかげ)祭」と「御阿礼神事」ということになる。

 

だから賀茂祭の15日ではなく、それに先立つ12日に、下鴨神社であれば5kmほど北東に離れた〝ご神体〟の御蔭山の山麓にある御蔭神社から、神様が下鴨神社までお出ましになる。

 

(御蔭祭の様子/下鴨神社ホームページより) 

 

これが御蔭祭である。この御蔭祭は「我が国最古の神幸列として、毎年神馬に神霊を遷し本社に迎える古代の信仰形態を今に伝える祭」と、ホームページにも記載されている。

 

今では御蔭神社から車で運ばれ、下鴨神社の手前から神幸列を組んで神社に入り、境内で「東遊(あずまあそび)」という舞楽の奉納などが行われて、神霊櫃に納まった神様が神馬の背に乗せられて社殿に向かう。

 

この御蔭祭も、明治期以前には「御生神事(みあれしんじ)」と呼ばれていた。だから上賀茂神社の場合と同じ呼び名であることがわかる。

 

上賀茂神社でも同じ12日の夜に「御阿礼(みあれ)神事」が執り行われるが、こちらは現在も秘儀となっていて、神職以外は見ることができない。

 

上賀茂神社の北方にある〝ご神体〟の山「神山(こうやま)」の麓の森に「神籬(ひもろぎ)」と呼ばれる仮の「籬(まがき)」を作って、神様をお迎えする神事が行われるという。

 

 

(上賀茂神社の北にあるご神体の「神山」)

 

毎年決まった時期に新たに神様をお迎えすること、上賀茂神社では今もそのための仮の「籬」を作って迎えていること、さらに夜に行う秘儀となっていることから、先にも書いたように「古代の信仰形態」をそのまま踏襲していると考えられている。

 

これが神様の遷移としての「賀茂祭」である。そして3日後の15日には、「路頭の儀」という祭列が市中を通って両神社へ向かい、社殿では「社頭の儀」と「本殿祭」が行われる。

 

 

 

この「路頭の儀」が、私たちが見物している「葵祭」ということになる。葵祭の祭列は、天皇の勅使が行列を組んで両神社に向かい、社殿に幣帛(へいはく、平たく言えばお賽銭)を奉納する儀式である。

 

 

 

ところで、現在の葵祭と言えば「斎王代」と呼ばれる若い女性が「輿」に乗って、〝勅使列〟の後に〝女人列〟として加わっていて、葵祭の「ヒロイン」という存在になっている。

 

 

 

この「斎王代」とは、「斎王」の〝代理〟という意味である。斎王は未婚の皇族の女性が、神に仕えるためにその地位に着いた。伊勢神宮にもこの制度があった。

 

それで斎王は「路頭の儀」の数日前に、普段住んでいる「賀茂斎院」という住居から出て、賀茂の流れで御禊(ぎょけい;みそぎ、身を清めること)をした。

 

斎王がこうして祭礼に加わっていたのは、上賀茂神社のホームページでは「弘仁元年(810)から建暦2年(1210)までの凡そ400年間・35代に及んだ」と書かれている。この時期以後は、この斎王という制度は廃れてしまったらしい。

 

『源氏物語』の「葵の巻」に描かれている、牛車で見物の場所取りの争いが起こるという事件は、この「御禊の儀」の日の出来事に設定されている。その頃から、この斎王の儀式は人気が高かったらしい。

 

この斎王に代わって、昭和311956)年から「斎王代」として復活し、現在も54日に両神社を流れる小川で「禊の儀」が執り行われ、やはり観客が大勢詰めかける。

 

 

 

そして15日の葵祭では、「斎王代」が女人列の「ヒロイン」として「お腰輿(およよ)」に乗って参列している。

 

ここまでで葵祭は終わるのだが、これで賀茂祭が終われば、神様は〝出張してきたまま〟になってしまう。本来であれば、神様は出てきたからには還らないといけない。

 

祇園祭でも、神輿に乗った神様は前の祭り(山鉾巡行のある717日)で〝御旅所〟まで往き、後の祭り(24日)で八坂神社に還って行く。つまり〝還る祭り〟が必要なのだ。

 

しかし実のところ、賀茂祭にはこの神様を〝ご神体〟の山にお返しするための神事がない。これには諸説あるらしいが、端的に言えば〝忘れ去られた〟のではないか、ということらしい。

 

これも知っておいていただくと、ちょっとした〝うんちく〟話になるのではないだろうか。