東京は緊張、だが京都では枝垂れ桜が満開に | がいちのぶろぐ

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さても世間は桜が真っ盛りとなってきた。だが今日の東京は〝厳戒態勢〟で、不要不急の外出は控えるようにと言われている。

 

 

(鴨川と高野川が合流する「鴨川デルタ」の桜)

 

昨夜のテレビのニュース番組では、各局がこぞって、金曜の夜の若者の街〝渋谷〟の人出の様子を中継していた。

 

たしかに例年の桜のシーズンの週末よりは減っているようだったが、それでも多くの若者が街に繰り出していた。

 

そうした若者へのインタビューでも、明日からの外出がダメっぽいから、せめて今夜は出ておこうかな、くらいの軽いノリで答えていた。まず、危機感などないに等しいだろう。

 

中には「自分、全然大丈夫っすから」と、ウィルス感染などまったく気にも留めていないように答える若者もいた。第1人称に〝自分〟を使うのは、あまり好きではないけれど。

 

このように、大人たちが目を吊り上げて〝今は重大な危機だ〟と言ってみても、若者の心には、それがまったく響くことがなさそうな雰囲気だった。

 

極端な言い方をすれば、〝なんで、みんな騒いでいるの?〟といった感じだ。それはそうだろう。自分の目の前で、人がバタバタと倒れてゆくのが見える状態ではないのだから。

 

先週の金曜からの3連休を前に、学校の休校措置を解除しても良いなどと、危機は去ったかのようなメッセージが出されたから、若者にしてみれば騒ぎはもう終わったという感覚になったのだろう。

 

だから、東京で若者が3連休に外出し、その時に感染していてもまだ無症状だから連休中に動き回り、結果的に他人も感染させていたかもしれない。

 

それが潜伏期間の終わるころになる今週後半から、一気に東京の感染者数が増加することになった、ということも考えられるのではないか。

 

東京都はこうした状況にあわてて、再び危機感を持たせないといけないと、必死になっているのが現在の姿だと思う。

 

若者にとっては〝不自由〟こそが自分にとって最大の敵であり、ウィルスは敵ではないのだ。だから自由を束縛するような規制には、ぎりぎり最低限の従い方しかする気はない。

 

出来ることならそうした規制にも背を向けて、この週末も〝パーリーピーポー〟となりたいけれど、さすがにそれはちょっと雰囲気的にまずいだろう、という程度の感覚だと思う。

 

昨日は東京の上野恩賜公園の桜並木も、午後には通行規制が行われていた。しかし目黒川沿いの桜並木は、遊歩道でなく一般道路だから通行規制を行うこともできずに、多くの見物人が行き交っていた。

 

人は桜の花に酔う。桜の開花は春の訪れのシンボルであり、気分を高揚させる引き金なのだと思う。だから、お花見という名の下に〝解放感〟を求めて外へ出て行く。

 

 

 

これは江戸時代からずっと続いてきた、この国の一つの行動パターンなのだろう。それを押しとどめるには、強権で〝自由〟を束縛する以外に方法はないと思われる。

 

といって、安易に強権を発動して〝非常事態宣言〟を発令すれば、その結果いかんによっては政権が危うくなるかもしれない。発令をすることは、その怖さも内在している。

 

私も今日・明日は、天気の具合でどうするかは考えるけれど、我が家からそれほど遠くないところへ、少しくらいお花見に出かけようかと思っていた。

 

午前中には、所用でホンの短時間だが我が家の近くの鴨川沿いまで出かけたところ、目に見える桜という桜が、いずれも満開に咲き誇っていた。

 

用事は15分ばかりで終わり、その時はそのまま帰って来たが、雨が降らなければ、自転車に乗って少しだけでも出掛けようかな、という気分になっている。

 

近場なら、それくらいの行動は許されるだろう。やはり、桜は人を酔わせる魔力を持っているのだと思う。

 

 

 

ということで、我が家から自転車で78分の上京区寺町今出川上ルにある「本満寺」まで出掛けてみた。学生時代の運動部の先輩が、先日このお寺に出掛けたと、写真をSNSに掲げておられたのを見たから。

 

 

 

 

みごとな枝垂れ桜だった。この枝垂れ桜を見ようと、10人ほどの方が訪れていた。さらに、枝垂れ桜に向かい合うようにソメイヨシノの老木もあった。

 

 

 

また、山門の脇にも数本の桜が満開になっていた。京都御所から北東へ10分足らずという場所だから、もし御所へ行かれるなら、ここへ足を伸ばしてみるのも良いかもしれない。