高齢化で都市部も限界集落に | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

春分の日。薄曇りながら穏やかな日になった。今日は近所のお酒の量販店が、月に一度の安売りデーだったので、午前中に焼酎と缶チューハイを買い出しに出掛けた。

 

今日買い込んだだけでも、自転車の前籠いっぱいになる量だった。みたところは大量に買い込んだようだが、酒好きの私にすればせいぜい23週間で飲み干してしまう程度だ。

 

 

 

だから次の安売りデーまでに、結局は継ぎ足しを買わないといけない。どうしてこんなに飲むのかと、時には自分でも不思議に思う。

 

でも、時間を忘れて打ち込むような趣味があるわけでもなく、酒を飲むことが唯一の趣味のようなもので、夕飯から眠りにつくまで毎夜ダラダラと酒を飲んでいる。

 

同い年の友人の中には、山に行ったりテニスやゴルフをしたり、それなりに健康的な趣味を持っているものも大勢いる。

 

だが私は、健康のためなら命は要らないとばかり、熱心に身体を動かすことはしたくない。きっと、根がダラダラした人間だと思う。これでも、学生時代は運動部員だったけれど。

 

だから酒でも飲んで、お気楽にテレビのバラエティ番組を見ていることが、今では精一杯の楽しみだ。音楽も美術も、ましてやファッションなどにもとんと興味が湧かない。

 

私にとっての新しい音楽とは、サザンオールスターズまでくらいだろう。それ以後、特に最近のように難しい楽曲は、私にすれば覚えることも理解することもできない。

 

かつては漫画を読むことも好きだったが、「北斗の拳」のように殺伐としたものが流行し出してからというもの、そうした風潮への拒否感もあって漫画も読まなくなった。

 

小説を読むのは好きだけれど、老眼鏡のお世話になるようになってからは、文庫本などをあまり熱心に読むと肩が凝ってしまうので、読書とも徐々に縁遠くなっている。

 

そう思えば、最近では「町歩き」が趣味になりつつあるかも知れない。何の当てもなくただブラブラとあちらこちらを散歩して、眼に止まったことをスマホのカメラで写しておく。

 

 

 

これが唯一の楽しみと言えるかも知れない。有難いことに、生まれてから今日に至るまで住んでいるのが京都という町だから、こうした「町歩き」を楽しむためのネタには困らない。それが救いだと思う。

 

とは言え、お寺に行って仏像を拝むという趣味はない。それよりも生活の匂いがする家並みや、何気なく見かける町々のお地蔵さんや、そこここにある小さな神社や祠が楽しい。

 

 

 

京都だから、観光寺院と呼ぶべき有名な場所も多い。もちろんそういう場所へ行くこともある。けれどその途中で見かけた何気ないものの方が面白い、と思うことも多い。

 

今日は午後から、町内会の役員の寄合がある。会議などと言う大層なものではない。来年度へ引き継ぐために、その中味を確認するための寄合だ。

 

私が住んでいる地域も独居老人やリタイアした人など、高齢者が中心になってしまって、町内会の世話をする人がいなくなりつつある。これも困りものだ。

 

町内会を存続させなければならない、とはあえて思わないけれど、京都市は町内会活動を活発にしようと呼びかけている。行政の末端としての機能を期待しているのだろう。

 

 

 

町中の商店街だって周辺に住む人々が高齢化し、商売が成立しにくくなっている。こうして、町が徐々に変容して行くのだろう。それでもまだ私たち団塊の世代は、何とか町にしがみついて生きている。

 

ただし、あと10年もすればそれすら危うくなってくる。となれば、町を維持する機能がマヒし始める。大都会の真ん中で、町々が限界集落と化してくる。そんな日も遠くはない。

 

高齢化とは、町の機能が成り立たなくなる現象だ。決して、単にお年寄りが増えて行くということではない。大都会の片隅で、限界集落が増えるということだ。

 

さてこの先、大都会が機能として沈没を始める時代になった時、〝町とは何か〟をあらためて問いかける作業が必要になるだろう。