嵯峨・嵐山は観光客が激減していた | がいちのぶろぐ

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昨日はブログを書くのをさぼってしまった。午前中は雑用に追われ、あまりにも天気が良かったので、ふと思い立って午後から嵯峨野へ出掛けてしまったから。

 

この間のブログに書いていたように、私にも今回のウィルス騒動が降りかかることになり、私自身多少なりとも気が滅入っていたこともある。だから、思い切って散歩に行ってみた。

 

それとともに、京都の観光スポットでは外国人観光客が激減しているというニュースが相次いでいたので、それもこの目で確かめてみたかった。

 

我が家から市バスで1時間ほどかけて、嵐山の「竹林の小径」の入口となる「野宮(ののみや)」バス停まで行き、「竹林の小径」に足を向けたところ、入口付近は少しだけ人混みになっていた。

 

それは、ほんの5mほどのことだった。その後は、以前の混雑が嘘のように、明らかにガランとした状態だった。特に多かった、中国からの観光客がほとんど見当たらない。

 

 

 

たまにマスクをかけて、中国語で話しながら歩いている観光客を見掛けたが、中国からなのか、台湾から来られたのかはわからない。

 

ただし、欧米からと思われる観光客はけっこうな人数が来ておられた。竹林を背景に可愛いお嬢さんの写真を撮る家族連れや、交互に写真を撮り合う若いカップルなども多かった。

 

 

 

「竹林の小径」の終点となる「大河内山荘」の前から、北の嵯峨方面に足を向けた。「トロッコ嵐山」駅までは多少の人出もあったが、そこから嵯峨へ向かう人はほとんどいなかった。

 

 

 

すぐに「小倉池」という小さな池があり、その畔に「御髪(みかみ)神社」という小さな神社がある。本来は「髪結い」の神さまなのだが、名前が名前だから「毛生え」の神さまとなっている。

 

 

 

もちろん私は、「敬虔な祈り」をささげた。もはや手遅れだろうけれど、多少は〝期待感″を持って、というのは嘘だけど。ところが、その神社の「絵馬」が秀逸だった。

 

 

 

何しろ「毛生え」の神社だから、テレビ番組のロケも多いと思われる。だから、ロケに来たと思われるタレントさんの絵馬が、社務所の前に数多く掛けられていた。

 

 

 

「もう手遅れ」という『バイキング』の小峠さんや、こちらも〝禿げ″タレントのモト冬樹さんなど。また『ブラックマヨネーズ』の小杉さんは「それなりに」という願い。だってフサフサになったら〝商売″に差し支えるから(笑)

 

 

 

またかっこいい『アンジャッシュ』の渡部建さんは、「おしゃれなハゲ方」で薄くなるようにという〝らしい願い″だし、『ロッチ』の中岡さんは「質より量」と書いていた。

 

 

 

それぞれが、お笑いタレントらしいウィットに富み、ユーモラスな願いごとを書いていた。良いですねえ、こういう願い事は。私もそれに乗っかりたい気分だった。

 

 

 

さて、御髪神社から北へ少し歩くと「常寂光寺」に至る。こちらは高校の「総合学習」のお伴で何度も来ている。紅葉の名所なので、さすがに昨日は入る人も〝まれ″だった。

 

 

 

常寂光寺から少し坂を下って北へ行くと、松尾芭蕉の高弟の、俳人・向井去来が庵を結んだ「落柿舎」がある。小さな庵だけど風雅な趣きがある。

 

 

 

ここからさらに少しだけ北へ行くと、この〝去来の墓″がある。高さ40cmほどの自然石に、「去来」という文字が微かに読み取れる。この辺りは歌人・西行にも縁があり、周囲の玉垣には俳句や和歌が彫られていた。

 

 

 

与謝野晶子や吉井勇の短歌に、高浜虚子の俳句などがあった。晶子と吉井勇は何とか読めたが、虚子の句はまったくお手上げだった。

 

 

 

そこからまた少し北へ行くと「二尊院」の前に出る。こちらは桜と紅葉の名所。やはり昨日はお客も少なかった。

 

 

 

その先のT字路を左へ行くと、愛宕街道になり祇王寺の坂の下から、奥嵯峨の化野(あだしの)念仏寺や鳥居本方面へ行ける。

 

 

 

このT字路にひっそりと「小倉餡発祥の碑」が二尊院にあることを示す石碑が建っていた。実は「落柿舎」の前の広場のような場所は、今も「小倉小豆」を栽培する畑として守られている。

 

 

 

昨日はここからT字路を右に、東の方へ向かった。もうこれで帰り道になるのだが。ダラダラとした緩やかな下り坂を東に行くと、途中に「小倉山荘旧址厭離庵」という石碑があった。

 

 

 

石碑の横の細い道を少し行くと、藤原定家が庵とした「厭離庵」の跡に出る。さらに行くと「慈眼堂」というお堂があった。この辺りは「中院」と呼ばれた場所らしく、このお堂には定家の念持仏(ねんじぶつ)だった観音が祀られているという。

 

 

 

とにかくこの辺りは、どちらを向いても日本史の教科書に出てくるような名前が関わっている場所なのだ。さらに行くと「夕霧太夫」の遺跡という石碑もあった。

 

 

 

そしてその先には、「清凉寺(嵯峨釈迦堂)」という法然上人にゆかりの大きなお寺がある。ここは広々としたお寺でいつ来ても気持ちが良い。

 

 

 

立派な本堂やその正面にはこれも立派な山門があり、その右手には阿弥陀堂がある。この阿弥陀堂の前に、背は低いけれどきれいな白梅が、香り高く咲いていた。良い景色だった。

 

 

 

 

法然上人の像の脇には多宝塔があり、こちらも紅白の梅が咲いていた。この多宝塔と向かい合うように経蔵がある。こちらは今まで気が付かなかったが、「転法輪(てんぽうりん)」という掲額があった。

 

 

 

 

その横の方に、1回100円で「法輪」を回す(転じる)ことができると書かれている。もう閉まる時刻だったので、係員の親父さんは〝どうぞ″と言ってくれたけれど、回すのは止めておいた。

 

 

つまり、この経蔵には万巻の経典が収められていて、この法輪を一度回すと、ここに収められた万巻の経を唱えたことになり、それだけの功徳があるということなのだ。

 

 

 

清凉寺の閉門時間が迫ってきたので、あわてて寺を出て、近くにある「嵯峨釈迦堂前」バス停から、また1時間余りをかけて家に戻った。

 

 

 

1時半過ぎに家を出て、帰宅したのは5時を回っていた。歩いた距離こそさほど長くはなかったけれど、久し振りのしっかりとした散歩だった。

 

帰りに乗ったバスが嵐山経由だったために、「渡月橋」を市バスで渡ることになった。その嵐山の辺りからは、さすがに大勢の方が乗り込んできた。

 

だが、ほとんどが日本人の観光客だった。確かにバスは混み合ったけれど、外国人の観光客の姿はほとんどなかった。

 

ニュースで言っていた通り、京都の外国人観光客は激減しているようだ。つまり、中国人の観光客が減ると、このような状況になるということなのだろう。

 

やはり、ウィルス騒動がダメージになっている。だからこそ、これを機会に、観光客の多様化を目指す方向に舵を切らないといけないと、あらためて感じた。