昨夜は、私が住んでいる小学校区の戸主防災会が行う「防災訓練」の打合せ会があり、持ち回りで今年度は町内の防災担当となっている私も、その会議に出掛けていた。
こうした、住民の活動を積極的に担っている人は、とても大変だろうなあと思う。ただこうした集まりに出掛けると、何となく居づらい雰囲気を感じてしまう。
場違いというか、仲間でもない人間が紛れ込んでしまったという気がしてしまうのだ。そんなことはない。私は来るべき一人のはずだ、と思おうとするのだが違和感が残る。
「町が生き生きしている」という言い方がある。「活気に溢れている」と言い換えても良い。それはどんな状態なのだろうか。
若い人が、大勢いることなのだろうか。その町が、経済的に潤っていることなのだろうか。たくさんの買物客が町を歩き、それを迎える店の人たちも笑顔で迎えることだろうか。
こうしたことのどれもが、「町が生き生きしている」ことの要素だと思う。「若さ」は、それ自体が活力源だし、経済的に潤っていれば、眉を寄せて暗い顔をする人は少ない。
だから町全体がこんな状態であれば、町が生き生きしていると感じるだろう。その反対ならどうだろうか。若い人はいなくなり、景気がそれほど良くなければどんな状態になるだろう。
町の中は、あまり人が出歩いていない。高齢者が多くなって、あまり買物にも出掛けなくなってしまった。
景気がそれほど良くなければ、笑顔ばかりというわけにもいかない。徐々に町の雰囲気が暗くなってしまう。今、全国の多くの地域で、こんな状況が生まれているのではないか。
私が暮らしている、京都市の比較的中心部に近い場所でも、観光客が多い特定の地域はともかくとして、昔からの住宅地は、多かれ少なかれ、こうした状況になりつつある。
独居老人をはじめとして、私たち団塊の世代が「若手」というような状況になりつつある。
昨夜の自主防災会の会議でも、消防署から来られていた方はまだ中年だったが、男性の出席者の大半は、私と同世代か少し下くらいに見えた・
自営業の人はともかくとして、勤め人であれば、こうした地域活動にはなかなか参加しにくい。だから男性は、リタイアした人が中心になってしまう。
そんな中で比較的元気なのが、中年女性の出席者だった。長年この活動に参加している人も少なくないようで、顔見知りも多くいるみたいだったし。そうでなくてもコミュニケーション能力が高い。
こうした人たちが支えているから、地域活動が回っているとも言えるし、それが同時に、私にとって尾心地の悪さにも通じるのだ。何とも言えない〝お客さま″感がするのだ。
肝心の会議に中味は、防災訓練当日の流れの説明が大半で、配られた資料に沿って、前年度との違いを説明する程度のことだった。
そんなことなら、会議はすぐに終わってしまうと思うのだが、説明が終わってからが長い。質問が出て、なぜかここから紛糾する。
それをとりなして、適当なところへ持って行くのは、手慣れた感じの女性の方たちだった。
町を生き生きさせるために必要な〝マンパワー″は、もはや完全に〝ウーマンパワー″に置き換わっていると感じた。
実に情けない話だが、親父なり爺さんには、そんな影響力がまったくなくなっていた。なんだか、会議から帰った後に疲労感だけが残っていた。