古めかしい修業という言葉を考えていた | がいちのぶろぐ

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ある知人が、フェイスブックで面白いことを発言しておられるのを見た。この方は「不登校児」の復学のために、寄り添いながらサポートをするという、いわゆる「社会起業」の仕事を立ち上げて、活動をしている方だ。

 

この方の活動は、素晴らしいことだとかねがね敬服をしている。その方が大学生のころに、牛丼チェーンでアルバイトをしていた時の話を、フェイスブックに書いておられた。

 

20年ほども前のことで、まだ注文伝票も導入されていなかったそうだ。その頃に、10人ほどの団体客が来店して、それぞれが異なった注文をすることもあったらしい。

 

牛丼チェーンはご存知の通り、どこもそれほどメニューの数が多くはない。だから注文伝票もなかったのだろう。それでも、口々に異なる注文をすることもある。これを間違いなく、調理場に伝えなければならない。

 

 

 

アルバイトを始めた当初は、やはりパニックになりそうだったという。それが1カ月ほどすると、こうした注文の場合の覚え方に、脳の中で回線がつながるようになったそうだ。

 

10人ほどが、一斉にバラバラの注文を言っても、それが整然と脳の中で並べ替えられるようになり、調理場へ無駄なく正確に伝えられるようになった。

 

これはある意味で、「修業」のたまものではないかと思った。毎日同じようなトレーニングを繰り返しているうちに、ある日突然に、何かがパッとわかってくる時がある。

 

つまり、「修業」の成果が現れる時が来た、ということだと思う。私はここで「修業」という古めかしい言葉を、あえて使った。

 

今ごろはこんな言葉も死語同然だろう。そもそも頭の中で覚えるよりも、その場で注文伝票に記入した方が誤りは少なくなる。

 

その方は、アルバイトをしていた牛丼チェーンが、とうとう「タッチパネル」方式で客自身が注文するシステムに切り替わることについて、感慨を込めて、ご自分の経験を書いておられた。

 

人間というものはトレーニングを重ねることによって、一つずつ「会得」することができる。その経験をプログラミングすれば、より早く簡単に、その経験値を新しい人に受け継ぐことができると思ってしまう。

 

しかし新しい人は、実際には体験していない。体験せずにその部分を飛ばして、次のステップへ進んでしまう。だから、そこで起きていた脳内の経験は、新しい人にはインプットされていない。

 

企業の論理で言えば、人がどれくらい変わったとしても、同じレベルに置き換え可能な状態に仕立てて行く方がコストダウンになり、メリットが大きいことはよくわかる。

 

しかし一人の人間の成長過程として考えれば、こうした「修業」を経ることなく次のステップへ進むことは、同時に、その時点で飛ばした行為が持っていた意味も、記憶しなかったことになる。

 

例えば板前になろうと思った時に、皿洗いなどの「修業」という「下積み時代」を経験した方が良いのか無駄なのか、という問題も同様だと思う。

 

 

 

皿洗いなどという〝無駄″なことは飛ばして、板前として必要な〝技術″をサッサと身に着けた方が、本人にもメリットがあるだろう、という考え方も成立する。

 

「修業」という名で、低い賃金で長い期間にわたって雇用しているだけ、という意見も、ある意味では間違っていないと思う。

 

だけど、お客さまにお出しする〝食器″を洗うという作業は、お客さまが食器に触れた時にどんなことを感じるだろうか、ということを想像しながら行えば、〝洗う″ということの意味が見えてくると思う。

 

「やらされている」と思えば、板前修業にとって〝皿洗い″などは本質とかけ離れた、つまらない作業に思えてくる。逆にどんな素晴らしい料理でも、欠けた器や汚れた器に入っていれば、食べる側は美味しく感じないだろう。

 

こうしたことが実感としてわかれば、その時が〝皿洗い″を卒業してもいい時だと思う。それでもそこに至るまでの〝下積み経験″が、その人の脳内に何かを蓄積させている。

 

昔、あるお稽古事の師が「〝かたち″を学ぶとは、〝型″に〝血″を通わせることだ」と言われたことがある。その時は「上手いこと言い」だと思ったけれど、これは実は大正解の言葉だったと、今になって思う。

 

「修業」とは、「意味を理解し、それを身体に染み込ませる」ための期間を指しているのだと思う。ある瞬間に、そのことの意味がパッと分かる時があるのだと思う。

 

ただし運動部の練習で、わけもなく無理なことを長時間やらせるのは、決して修業でもなければ、練習でもない。指導者が、やらせることの持つ意味を理解していなければならないことは、言うまでもない。

 

そんなことを、知人のフェイスブックの文章を読みながら、考えていた。