インバウンドに 花見の宴の コンテンツ | がいちのぶろぐ

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願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃 (西行)

 

お昼前から、弱い雨が降り続いている。このところ、桜に浮かれて出歩いてばかりいたが、そんな中でいくつか気になったことがある。

 

一つ目は、花を眺めながら、その下でお弁当を広げたり、花見の宴を張ったりすることができる場所が、意外と限られていることである。

 

 

 

公園であったり、河川敷であったりという場所であれば、そこにシートを広げるなり、置かれたベンチに座るなどして、食事をとったり、花見の宴を行うことも可能である。

 

 

 

しかし、花のある場所がお寺であれば、そこで弁当を広げるということは難しい。お城が公園になっているような場合なら、これも公園の一種として宴会も可能かもしれないが、お城見物の客が主体という場合であれば、敷地内での飲食はお断りということもある。

 

このように、昼ご飯を食べるにも案外と不便な場所も多いと、このところ出歩いていて気付かされた。というか、持って行った弁当を食べる場所探しに、苦労したこともあった。

 

 

(醍醐寺の「お休み処」)

 

もう一つは、桜というか花見という「コンテンツ」の問題である。最近のように、桜を見物する外国人観光客も増加している状況を前にすると、今までは桜という存在が、これほどコンテンツとして大きな存在だと考えられていただろうか、ということである。

 

春=花見=宴会という図式が、これまで私たちの常識の中に存在していた。しかし外国人観光客にとっては、桜=花見=写真撮影&SNSという図式はあっても、イコール宴会という図式は存在していなかったはずだ。

 

つまり、〝観光コンテンツ″としての桜と、〝遊びコンテンツ″としての花見は、立場が異なれば、当然ながら変わるということだ。

 

(桜の下で写真を撮る外国人観光客/京都・平野神社)

 

観光という広いニーズの中で、それに見合った「コンテンツ」として、桜をどのように位置付ければよいか、私たちもまだ十分には理解していない段階のような気がしている。ここでニーズとは、すでに顕在化している「要望」「要求」を意味している。

 

一方で、外国人観光客も潜在的に抱えているかも知れないが、まだはっきり目に見える形になっていないか、それとも、そんなことは思いも付かないことだ、という場合には、これをウォンツと呼ぶことにする。

 

つまり「ウォンツ」とは、それを目の前に提示された時に初めて、自分がこれを欲していたと気付くとか、これは素晴らしいことだと納得する、といったような事柄である。

 

こちらが何かを準備して、それを与えてみたところ、それが思わず「受けた」ということである。映画や音楽などがヒットする場合は、こうしたウオンツが引っ張り出された結果として発生することも多い。

 

そこで話を元に戻すと、「桜見物」は日本人にとっては様々な角度から、すでに〝春の遊び″の重要なコンテンツとして認識されている。

 

その一方で、外国人観光客にとってみれば、「桜の楽しみ方」は定着したコンテンツというところまでには、まだ至っていないのではないか、という考え方である。

 

 

 

「日本の春=桜の花」というところまでは来ている。だから、桜の名所にはかなり大勢の外国人観光客も訪れる。だけど、その先にはまだ至っていない。せめて「桜=花見=ピクニック」という図式を提案できないものかと思う。

 

 

(お花見スポットで店を除く外国人客/京都・哲学の道)

 

「異文化体験」と言うほど大層なものではなくても、京都や金沢といった町では、着物を着て観光するというパターンは、外国人観光客の間で定着してきている。言ってみれば「ごっこ遊び」なのかもしれないが。

 

 

(着物姿で町歩きの外国人客/京都・円山公園)

 

最近の言い方では、「コスプレ」などと表現される種類のことである。その延長線上で、東京では「忍者ごっこ」や「侍ごっこ」、「チャンバラごっこ」などを提供する店も繁盛しているらしい。

 

「ごっこ遊び」は、ある意味で安直な「異文化体験」なのかもしれない。もっと本格的に趣味の領域まで踏み込む人は、外国人観光客の中では圧倒的に少数派だろうと思う。

 

畳の部屋で浴衣を着て過ごしたり、布団の上で眠ったり、といったことも、またこの範囲のことだろうと思う。外国人のイメージの中にある日本を、〝かりそめ″に体験して見る楽しみということだ。

 

ちょっと覗いてみた、触れてみたことが、案外と記憶に残ったりするかもしれない。古民家宿泊なども、同じようなことだろう。そうしたことも、旅の楽しみ方の一つだろうと思う。

 

 

(古民家をリノベした宿/兵庫県丹波篠山市)

 

こうした、異文化とちょっと触れてみることを、「コンテンツ」として成立させようと思うなら、いっそのこと「江戸時代の花見の宴会」といった趣向を、外国人に提供するというツアーは十分に成立すると思う。

 

お花見ポイントによくある「茶店」などと契約して、「ボテかつら」と浴衣と帯を準備して、「重箱」に入った料理と、大徳利に入った燗酒なども並べて、桜が見える緋毛氈の床几の上で宴会をする。

 

 

(花見茶屋が並ぶ京都・平野神社境内)

 

やるならここまでやる。そうして初めて、「受ける」遊びになる。ただし、ツアーである以上、日本人の様に酔っぱらうまで居座る、などという野暮なことはしない。せいぜい60分から90分のコース設定にする。

 

こうすれば、〝桜を見る″観光から〝花見を体験する″観光に変化する。これが体験型観光としての桜=花見の「コンテンツ化」だと思った。

 

これは、まだニーズとして聞いたことはない。でも日本人は、江戸時代からこうして春を楽しんできた、という異文化体験の観光であることは間違いない。

 

本質として異文化を理解する、というほどのことではない、「ごっこ遊び」であっても良い。新たなコンテンツとして、ウオンツを掘り起こすという意味では、これは有り得る姿のような気がした。

 

自分が春に浮かれて、花の尻を追っかけていたような状態だったけれど、お花見という観光コンテンツのことは考えていた、誰か実行するば、面白い企画になると思うのだが。