コミュ障だと それは世間を 知らぬだけ | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

先週開催された神戸CSR研究会のシンポジウムについて、若干の想いなどをこのブログに書いておいたところ、当のご本人である神戸大学大学院経営学研究科の國部克彦教授が、ブログのことをフェイスブックで丁寧に取り上げてくださった。

 

こちらは、ブログに書いた内容が“我流”の解釈になっていたのではと、恐縮していたのだが、少なくとも私の解釈が大筋で間違っていなかったことを、確認できただけでも有り難い限りだった。

 

さて、昨日は新聞の情報量の豊富なことに関して、京都の銘菓「阿闍梨餅」が販売に定休日を設けたことや、自死・自殺相談センターの活動を行っている僧侶のことが書かれた記事について、若干の感想を述べた。

 

実はもう一つ、昨日の毎日新聞の記事で、読み逃せない特集記事があった。それは「なぜコミュニケーション能力か」という大見出しが掲げられた記事だった。

 

現在、大学生の就職活動は4月1日入社を前提とした「一括採用」が、大部分の企業において原則となっている。その際に、採用する企業の側は「何を選別のための判断基準としているか」について考察された記事だった。

 

そして、現在は「コミュニケーション能力」を重視するという企業が9割近くにのぼる、と紹介されていた。

 

これは、経団連が実施したアンケート調査結果において、2001年には「コミュニケーション能力」「チャレンジ精神」「主体性」「誠実性」「協調性」という項目が、それぞれ40~50%でほぼ横並びになっていたが、その後、「コミュニケーション能力」だけが突出して高くなっていった、という結果が得られたことに拠っている。

 

(昨日の毎日新聞の記事より 無断借用です。ゴメンナサイ)

 

この原因について記事では、「仕事で必要な能力は必ずしも大学で学ぶ内容とはつながらないことが多い」ために、今日のように大学卒業者が50%を占める時代になれば、従来は一つの判断基準とされていた学歴などの指標も、さほど有効性を持たなくなったことに起因しているのではないか、と指摘されている。

 

そして、企業側が「新たな指標を模索する」中で、「コミュニケーション能力」が浮上してきたのではないか、と推察されていた。

 

この記事にも書かれているが、最近は「コミュニケーション障害(コミュ障)=他人との付き合いが苦手なこと」という言葉を耳にするようになっている。他人と上手く付き合う=会話をすることが、苦手な人間が増えているというのだ。

 

障害というけれど、“発達障害”という、生きてゆく上で本当に困難な状況を抱えた人もいる。ところが、ここで言う「コミュ障」とは、決してそんな状況を指しているのではないと思う。

 

これは、単に気の合った同世代の仲間とならコミュニケーションが取れる=会話が成立するのだが、自分と同世代ではない大人と話すとなると、いきなりコミュニケーションが取れなくなる=会話や意思疎通が図れなくなる、という状態になるのだ。

 

それにはいくつかの原因が考えられるだろう。まずは、自分の周りに大人が不在になっていることがある。小学校から大学まで、自分の周りにいる大人は、親と先生だけである。

 

親とは、思春期の頃からはロクに口も聞かなくなっている。先生とは小・中学校時代は「タメ口」同然の話し方でしか話してきていない。高校や大学では、先生と個人的にはあまり話をすることもなくなっている。

 

つまり、こうした結果、コミュニケーション障害と言っても、「大人との会話の仕方・付き合い方」が、全くと言ってもいいほど「身についていない」ということなのだろう。

 

何とかそれを救ってくれているのが、「アルバイト先の大人」たちなのかもしれない。もしこのアルバイトという機会がなければ、もはや大人と会話する機会は、大学を卒業するまで全く訪れてこないのだから。

 

次にメールやラインといった、「仮想現実空間」での会話が増えていることが考えられる。これまで携帯電話だった時代には、少なくとも「音声」による会話が行われてきた。それが現状では「文字・絵文字・スタンプによる会話」という「いびつな会話」が増えている。

 

しかも、大学生にとって、それはあくまで同世代間でやり取りされるものであり、大人との「文章表現」によるメールでは決してない。その仮想現実空間では、単語だけのやり取りや、短い会話文や、感情表現の代わりとなるスタンプが飛び交っているのである。

 

これで、いきなり「丁寧語」や「謙譲語」を必要とされる「大人の会話」の世界に入って行けば、コミュ障に“ならない”方が不思議なくらいである。

 

つまり、現在の若者にとって、「大人との会話」とは「外国語を話す世界」なのだと理解すればよい。それくらいに「言語としての断絶」があると思えばよいのだ。

 

そうなると、就職活動の面接に際して「まともに会話ができる=コミュニケーションが取れる」ことは、面接する側には当然ながら「好もしい存在」に映ってしまう。知らない外国で、日本語が話せる人と出会った時の感激というか、ほっとした感情に近いものがある、と言えば大袈裟に過ぎるだろうか。

 

こうして考えてみると、何のことはない、若い人にとって「コミュ障」とは、「仲間外」である大人との会話の方法がわからなくなっていて、大人との接点が少なくなったことに起因している“一過性”の状況に過ぎない。

 

だから、「就職活動講座」のようなところに通って、「話し方教室」のような指導を受けることになる。結果的に、誰もが似たような受け答えになってしまう。そうなれば、面接担当者の前でふとした拍子に現れる、きちんとコミュニケーションのとれた会話が、好ましく思われることになってしまう。

 

そのために、「大人との会話の場所」を確保する手段として、昨日の記事でも、「インターンシップ制度」の利点が挙げられていた。インターンシップとは、募集する企業に出かけて、短期なら1~2週間程度、長ければ夏休みを丸々1、2カ月の間使って、職場で実際に働くことである。

 

こうすることで、会社(大人の組織)とはどんなもので、そこで何が行われ、どのように仕事が進んでゆくのかを体験できる、ということになる。しかも短期なら、ある程度は企業側が準備したスケジュールや内容に従うだろうが、長期となれば、会話をする必要がいよいよ増えてくるから、「大人との会話」ができるようになって行く。

 

「コミュ障」ということは、仲間外である身内以外の大人と過ごす時間を作ることで、比較的容易に解決できる人の方が多いと思う。そうではなくて、もっと重度であるというのなら、これは真剣にカウンセリングと取り組んだ方が良い。専門家の方と相談しながら、進めてゆく必要があるだろう。

 

大半の大学生が、「コミュ障」などと言っているのは、仲間内以外との付き合い方を知らないという、言ってしまえば「世間知らず」の言い換えに過ぎないのだろう。

 

それにしても、新卒者の就職を4月一括採用と考えることの方を見直すことが、先決だろうと思う。

 

通年、就職の門戸が開かれていて、「就職に失敗した=41日時点で入社できない」という単線化した考え方よりも、大学を卒業して3か月の間海外を回ってきたが、結果としてやはり日本で就職しようと思った、などという人物など、採用面での「多様性」を持たせた方が、企業側にとっても、「コミュニケーション能力」などという評価軸以外の、人間性の評価ができて、むしろ良いように思えるのだが。