市井のこと 載せて新聞 価値を産む      | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

「新聞は情報の宝庫である」と、今日、つくづくと思った話である。

 

今朝、新聞を読んでいて、最近お土産品として有名になっている京都の和菓子店が、「丹波大納言小豆」が昨年は不作だったので、これから毎週1日、販売を休止するという記事を見かけたのだ。

 

(5月22日付毎日新聞の紙面より)

 

この和菓子店は、我が家の近くに本店がある「満月」。この店が製造・販売している「阿闍梨餅」は、最近では京都のお土産品として有名になってきている。その形を、比叡山で荒行を行う「阿闍梨」が身に着ける“笠”に似せている。

 

酒飲みの私が、この和菓子は大好物である。あっさりとした粒餡が、薄い餅皮にくるまれて、焼かれたものである。値段も、1個100円ちょっというお手ごろ価格だ。

 

(前の記事の写真 無断借用です。ゴメンナサイ)

 

それが、昨年の天候不順によって、これも有名な「丹波大納言」ブランドの小豆が不作で品薄になっているという。そこで、満月では1922年の発売開始以来初めて、週1回の製造・販売の停止に踏み切った、ということだ。

 

確かに以前より販売拠点も大幅に増加しており、新聞記事によれば、現在では一日に数万個を生産しているということだから、小豆の確保も大変になってきているだろう。

 

だから今回、別の産地の小豆を手当てして生産するよりも、今までの味を大事にして、次の小豆の収穫・出荷時期である晩秋までの期間は、生産調整をして乗り切ろうということだそうだ。

 

企業としては妥当な判断だろう。もちろん、日々の生産量を減らして毎日販売することも可能だろう。その結果、販売拠点によっては“午前中に売り切れ”などと言うことがあっても、それはそれで有り得ることだと、お客に理解してもらえるかもしれない。

 

ただ、「いつ買いに行っても品切れ」という評判が立てば、それも困ったことになる。何といっても、最近人気が上がってきているところだけに、評判は大事にしたいだろうから。だから、思い切ってお客の少ない水曜日の製造・販売を休むという。

 

阿闍梨餅は半生菓子なので、もともとそれほど日持ちの良くない商品である。そのため、生産当日に売り切ることを原則としてきた。そこを考えれば、連日の生産・販売というよりも、思い切って定休日を設けた方が、はっきりしていてわかりやすいと思う。この方が、販売戦略としては正しい方向だろう。

 

こんなことまで、新聞記事に載っているとは思わなかった。ややびっくりした。新聞とは、かくも情報が豊富なものではないか。ネット配信記事では、どうしても全国性でニュース性の高いものに比重が傾き、こうした“市井のちょっとしたニュース”は配信されにくいと思う。

 

今日はこの他にも、自死を考える人と寄り添って、生きるための力添えになる活動をしている、若い僧侶のことも掲載されていた。この話題も、これから連載となるようなので、注目して読んでゆきたいと思う。

 

(5月22日付毎日新聞記事より 竹本了悟氏 無断借用です。ゴメンナサイ)

 

仏教が“葬式仏教”と揶揄される一方で、こうして人間の生死と真摯に向き合う僧侶もいる。そう言えば、“最近、京に流行るもの”という囃し言葉ではないが、最近、京都市内に「坊主バー」ができていて、人生相談にのることで結構な人気なっている、と聞いたこともある。

 

一方で、過疎地では檀家が消滅していって、廃寺や無住の寺になるところが出てきていると聞く。そうなれば、葬式仏教ですらなくなってしまう。多分、分類上は“仏教徒”であっても、決して熱心な「信徒」ではない私も、仏教の置かれている状況が厳しいだろうことは推察がつく。

 

そうした中で、今日の新聞に掲載されていた若い僧侶のように、宗教の本来の姿である、「人間の死生観」の奥底に存在する個々人の人生との向き合い方に、真剣に思いを馳せる宗教者も存在するのだ。

 

このことを論じていては、どれほどの時間を要するかもわからないし、哲学音痴の私の頭では、わかる時など終にやって来ないと思う。けれど、宗教者であることの本質を自分でも追い求め、自死を想う人への心の相談窓口として、それを実践しておられる僧侶の記事も、新聞に掲載されていた。

 

かつて新聞は“社会の木鐸”として、報道の王道的存在だった。しかし、速報ではテレビ・ラジオに座を追われ、論評では週刊誌の追撃に遇い、そうして止めのごときネット配信記事から、ネット同時中継という媒体まで現れた。

 

こうした媒体戦争での新聞包囲網の中で、一つの完結した報道・論説媒体として、毎日A4サイズで80ページ分ものボリュームのコンテンツを発行し続けていることも、考えれば驚異的なことである。

 

私自身、このところ、新聞はざっと流し読みをする癖がついてしまっていたが、もう少し気合を入れて読まないと、これでは“もったいないな”と感じた次第である。