高校の 授業手伝う 初夏の窓 | がいちのぶろぐ

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観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

昨日は、大陸からのPM2.5の飛来もなく、空がことのほか濃い青色になっていた。しかも気温は30度近くになって、この時期としては高かったけれど、湿気が少なくて日陰に入ると涼しく、とてもいい気持だった。

 

昨日の午後は、お手伝いしている京都市内の高校の「総合学習」の授業の、今年度最初のお手伝いのため高校にお邪魔した。校長先生にもご挨拶を済ませてから教室に向かうと、今年度も20名ほどの生徒が顔をそろえていた。

 

(昨年度訪問時の写真より)

 

最初にお互いが自己紹介をしたのだが、やはり高校生たちが「未知の生物」である“私たち=初対面の大人”と出会うと、とにかく話し声が小さい。聞き取れないというより、消え入りそうな声で自己紹介をする。

 

ある生徒が、「今、はまっているものは何?」というこちらの問いかけに、テレビの人気バラエティ番組「アメトーーーク」と答えた。待ってましたという感じで、私も自己紹介の時に「私が今、はまっているものは、アメトーーークです」と言った途端に、最初に言ってくれた生徒の周辺の席がどっと沸いた。

 

“つかみ”は随分と上手くいった。その後は、今年度も授業全体を通底するテーマとしている京都の「嵯峨・嵐山地区」について、この間自分たちが図書室やインターネットで調べたことを、グループに分かれて出し合うところからスタートした。

 

小さな紙にキーワードを書いて、お互いに“出し合いっこ”をし、それらの共通点を見出してグルーピングしてゆく。その後、そのグルーピングされた内容ごとに「見出し」を付けて整理する。この作業に私たちも加わって、括り方の視点や共通点の見立て方などを時折りアドバイスした。

 

見出しが付けられ全体像がまとまってくると、それぞれが調べたことから、世界的に有名な観光地である「嵐山」を中心とした地域は、いったいどんな地域なのかが、おぼろげながらそれぞれの生徒の脳裏に浮かび上がってくる。

 

個別のキーワードの中で、私が気になったものを2,3取り出して、グループのメンバーに訪問や体験の有無を聞いてみると、これが案外に少ない。昨年度もそうだったが、若い高校生たちにとっては、同じ京都市内という“身近”にあり過ぎて、意外と訪問や体験の機会がないものらしい。

 

(昨年度の授業の写真より)

 

再来週以後の授業では、現地訪問の機会もかなりあるから、知識としてではなく、体験としてどんなところかを理解し、なぜ観光地となり、有名になって行ったのかについて、理解を深めてほしいと思う。

 

私たちがお手伝いしているのは、生徒たちのディスカッションが煮詰まってきたときに、少しヒントを出して視点を変えさせたり、その時に問題となっている議論をいったん止めて、他の話題を先に考えさせて、そこからまた元のディスカッションのテーマに戻させたりすることだ。

 

こういう役割なので、元々のディスカッションには滅多に加わらない。最近のはやりの言い方をすれば、ファシリテーション手法というのだろう。私なりには「傍目八目(おかめはちもく)」だと理解している。

 

ディスカッションの当事者でない分、落とし穴に入っている原因がわかったり、煮詰まっている部分が見えたりするものだ。だからお手伝いもできる。ただし、高校生たちよりは知っていることも多いから、訊かれたら答えることもできるが、そこはグッと我慢して、自分たちで考えたり、データを探したりさせる。

 

こうして考えてゆく作業を通して、生徒たちは「テーマとしている内容が抱えている『課題』×自分たちが思い描く『未来像』=解決への『筋道の発見』」という“思考の道筋”を身に着けることができるだろう。

 

この「総合学習」の授業はオモシロいし、楽しい。この授業を受けている一年(といっても、正確には半年余りだろうけど)の間に、生徒たちが「考える方法論」を少しずつ身に着けていく姿が見えてくる。

 

“学び”とは、一方通行で「今まで全く知らなかったことを、聞かされて知る」こともあるだろうし、この授業のように、「テーマを探し出し、課題を見つけ、未来像を思い描き、そこへ至る道筋を探る」ことから解る場合もあるだろう。

 

どちらが良いということではなく、先達がいることで、無駄なくたどり着ける方が良い場合もあれば、自分で迷いながらも道を探す方が良い場合もある。

 

社会へ出れば、極端な話、二度と同じ課題には出会わない。だから、課題解決のための「方法」を身に着けることも大事だし、そのための“基礎となる知識”を聞いて知っておくことも大事だと思う。

 

“ゆとり世代”だとか“さとり世代”だとか、過ぎた自分を棚上げにして、若い人たちを一括りにした「ラベル」貼りをすることにも、“何だかなあ”としっくりこない感覚を覚えることもある。

 

この授業を受けている高校生たちは、最初は手探りで、それから徐々に自分たちがなすべきことや、そのための方法を身に着けてくる。知識欲が旺盛な年代でもあり、新しいことを吸収する柔軟性も持っているこの時代に、こうした授業を受けることも大切なのだなと感じる。

 

さて、これから来年の2月頃までの期間で、この生徒たちがどんなふうに自分たちを表現するようになるのだろうか。また、折りに触れてこの授業の様子を書き留めてゆきたいと思う。