今日は母の日である。だから、私には何の関係もない。私の母はとうの昔に亡くなっている。まあ、あまり親孝行などした記憶もないが。
ただ、母親に赤いカーネーションを送る“習慣”があるらしかった!から、小学生の頃には、花屋さんへカーネーションを一輪だけ買いに行って、手渡したことはあった。
カルメン・マキという歌手がいた。ハーフのような風貌をしていた。ハーフだったのかもしれない。私は知らない。彼女が歌った曲に「時には母のない子のように」という曲があった。
演劇実験室「天井桟敷」を主宰していた寺山修司氏が見出し、プロデュースした歌手だった。
「天井桟敷」という存在自体も、寺山修司という作家であり、演出家であり、プロデューサーであり、歌人でもあった、多彩な天才アーティストのことも、もうおぼろげな彼方にかすんでいくようだ。一度だけ会ったことがある。私の青春時代のヒーローだった。
(寺山修司氏/無断借用です。ゴメンナサイ)
その寺山修司氏に見出された18歳の少女が、1969年にデビューした。「時には母のない子のように」は、歌詞を寺山修司氏が書いている。
歌はこのように始まる。
「時には母のない子のように 黙って海を見つめていたい」
そして最後は、こう締めくくられている。
「母のない子になったなら 誰にも愛を話せない」
設立間もなかったCBSソニーの酒井政利氏らが、このレコードを手掛けて、CBSソニーの初ヒット曲となったそうだ。
いい曲だった。当時大学生だった私たちは、やや掠れた声で歌うカルメン・マキの歌声に聞きほれた。静かな曲なのだが、それがカルメン・マキの風貌とよくマッチしていた。
(カルメン・マキさん/無断借用です。著作権を侵しています、ゴメンナサイ)
残念なのは、「母のない子のように」という歌詞が、槍玉に挙げられたことだろう。本当に母親のいない子も大勢いる。では、母のない子は「誰にも愛を語れない」のか、ということである。
母親のいない子がこの曲を聴いたときに、何を思うかを考えれば、この歌詞は問題を含んでいる。そうした子どもたちの心を思うべきである、として非難を浴びた。
その言い分も正しい。だから、ラジオやテレビからこの曲が姿を消した。しかし、カルメン・マキの歌声と共に、私の青春時代を彩った曲であることには違いない。
小学生の頃には、母親のいない子は白いカーネーションを胸に飾るのだ、とも言われたような気がする。母親がいないことを、なぜ、わざわざ表さなければならないのか、子ども心に不思議だった。
この“慣習”も、すぐにすたれた。やはり、母親がいないことをわざわざ表すことはおかしい、ということだったのだろう。
母の日の思い出といっても、これくらいのことである。今は、私の家人が、子どもたちから毎年花を贈られている。嬉しいものらしい。私には、“らしい”としか言い表せないのだが。
来月には「父の日」がある。何だか、とってつけて、作られたような気がしないでもない。私にも、毎年子供たちからプレゼントが届く。夏物の衣類やお酒など、こちらは実用本位(?)である。とてもありがたいし、うれしい。
今日は、「CSRはオワコンか?」ということを考えていたので、そちらのテーマを書こうと思ったのだが、やはり母の日のことにした。家人が嬉しそうなのは良いことだと思うので。